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「新編 単独行」 加藤文太郎

新編 単独行 (ヤマケイ文庫)
加藤文太郎
山と渓谷社
2010-11-01





第1章 単独行について
 単独行について
 冬・春・単独行ー八ヶ岳/乗鞍岳/槍ヶ岳/立山/奥穂高岳/白馬岳
 一月の思い出 - 劒沢のこと
 僕の単独(富士・冬)
 私の冬山単独行
第2章 山と私
 私の登山熱
 山と私
 山へ登るAのくるしみ
 初めて錯覚を経験した時のこと
 冬山のことなど
 山に迷う
 穂高にて
第3章 厳冬の薬師岳から烏帽子岳へ
 初冬の常念山脈
 槍ヶ岳・立山・穂高岳
 厳冬の薬師岳から烏帽子岳へ
 槍から双六岳及び笠ヶ岳往復
 厳冬の立山、針ノ木越
第4章 山から山へ
 北アルプス初登山
 兵庫立山登山
 縦走コース覚書
 兵庫乗鞍-御嶽-焼登山記
 兵庫槍-大天井-鷲羽登山
 南アルプスをゆく-赤石山脈・白根山脈縦走
 山行記
 神戸附近の三角点
 冬の氷ノ山と鉢伏山
 春山行
加藤・吉田両君遭難事情及前後処置
後記(遠山豊三郎・島田真之介・加藤花子)

2度目の緊急事態宣言が発令中なので、休みの日は出来る限り外出を控えて、もっぱら読書に勤しむ。積み本というのだろうか、とかく読む本は常にある。

昭和初期の名登山家 加藤文太郎(1905-1936)。私が最初に彼を知ったのは坂本眞一の漫画「孤高の人」だった。これは実際の加藤文太郎の姿ではなく現代版のリメイクで、ボルダリングで頭角を現した彼が国内の高峰群を冬季単独行で制覇した後に、カラコルムのK2に挑むというストーリーだった。

その後に原作である新田次郎の名著「孤高の人」を読んだ。人付き合いの下手な彼が、一日で六甲山脈を全縦走したことを皮切りに、北アルプス等を冬季単独で制覇した末に、初めてパーティを組んだ北鎌尾根で遭難死したという内容。正に孤高という彼の山行に感銘を受けたものの、事実とは少し異なるということを知った。

そして行き着いたのが本人が書いたこの「単独行」だった。ここには彼自身による人間らしい飾らない言葉が綴られている。

文太郎は1905年に鳥取県浜坂の生まれだ。その後神戸で三菱造船の技師として働く傍ら、山歩きに目覚める。六甲山後の山行として本書ではその後の氷ノ山等の兵庫アルプスへの登山が頻出する。当地の各山を兵庫槍、兵庫乗鞍などと呼ぶあたりお茶目な一面を見せている。

憧れの日本アルプスに赴くようになってからは恐ろしい勢いで制覇していった。燕〜大天井・槍・穂高〜上高地〜乗鞍〜木曽駒を11日間で、戸台〜千丈〜甲斐駒〜台ヶ原〜八ヶ岳〜浅間山を5日間など、どれも単独行である。

夏期に全て制覇した彼はやがて厳冬期の山行へとのめり込んでいく。自ら登山経験を積む中で、行動食として甘納豆を常備したり、目出し帽を開発したりと工夫も重ねた。そして薬師岳〜烏帽子岳縦走や槍〜笠ヶ岳ピストンなど、充分な睡眠も取らずに夜通し踏破している。雪穴を掘って仮眠を取る際にも直前に温かいものを食べれば凍死しないと確信していたようだ。しかしとても常人は真似をしてはいけないだろう。

確かに彼は人付き合いが得意ではなかったが、決して常に孤独だったわけではなく、同じ山仲間と山行を共にすることもあった。しかし岩登りやスキーに苦手意識があったのと、彼の歩くスピードが人並み外れていたことから、必然的に単独行が多くなっていた。

昭和11年冬、文太郎は後輩吉田富久と北鎌尾根から滑落後に遭難し還らぬ人となった。新婚で娘も産まれたばかりだった。後記にある花子夫人の気丈な寄稿文が胸を打つ。

私自身も山行は基本的にいつも単独なので、この偉大な先人から学ぶことは多かった。しかし単独行に付き纏う危険については常に注意しなければならないという思いも新たにした。

大聖寺~深田久弥を訪ねて

先日の福井探訪の際に1か所だけどうしても行きたいところがあった。「日本百名山」で有名な深田久弥が石川県加賀市の大聖寺の出身であり、町中にはゆかりの地が多くある。それらを訪ね歩くべく、1時間に1本しかない北陸線に乗って大聖寺駅へ降り立った。荷物を詰めた重い登山リュックを駅のロッカーに預けようと思っていたがロッカーがない。仕方なく背負いながら歩き始めた。

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まずは久弥の生家である深田印刷へ。彼の部屋も見学可能らしいのだが、この日はあいにく休館だった。

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続いて当日の目玉「深田久弥 山の文化館」。直筆原稿や愛用品の展示の他、膨大な山岳書籍が並んだ「九山山房」や、白山の写真・絵画公募展のギャラリーなど盛り沢山で、あっという間に時間が過ぎてしまった。

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大聖寺藩祖前田利治と菅原道真を祀った江沼神社。庭園が見事だったが、ここに久弥の文学碑もあった。

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大聖寺城があったという金城山。ここには日本百名山発刊50周年記念碑がある。あいにく曇のため久弥が愛した白山はこの日は拝めなかった。

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町西の山ノ下寺院群の1つ本光寺。ここに久弥の墓がある。何も看板などなかったが、帰りがけの女性が私の登山姿を見て声を掛けて下さり、墓まで案内して頂いた。感謝。

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全昌寺にある久弥の句碑。彼は九山という俳人でもあった。ここは松尾芭蕉ゆかりの地でもあり、芭蕉らの句碑も並んでいた。

大聖寺を歩いて痛感したのは、かつての城下町の風情が残り、古い町並みが趣深い。そして外敵から守るために寺社を集めたらしく、とにかく歴史のある神社仏閣だらけ。今回は時間がなかったが、九谷焼も有名で美術館もあった。しかし連休にも関わらず町中閑散としていた。これだけ観光資源があるのに何とももったいないと思った。

「燃えよ剣」 司馬遼太郎

燃えよ剣(上) (新潮文庫)
司馬 遼太郎
新潮社
1972-06-01


女の夜市
六車斬り
七里研之助
わいわい天王
分倍河原
月と泥
江戸道場
桂小五郎
八王子討入り
スタスタ坊主
疫病神
浪士組
清河と芹沢
ついに誕生
四条大橋
高瀬川
祇園「山の尾」
士道
再会
二帖半敷町の辻
局中法度書
池田屋
断章・池田屋
京師の乱
長州軍乱入
伊東甲子太郎
甲子太郎、京へ
慶応元年正月
憎まれ歳三
四条橋の雲
堀川の雨
お雪
紅白
与兵衛の店

土方歳三を描いた小説「燃えよ剣」。この作品はちょうど映画化されたのだが、その公開がコロナの影響でずっと延期になっている。大抵の映画は原作を読んだ後に観るとガッカリすることが多い。でももう待てないので先に原作を読むことにした。

これまで新選組を描いた作品は多くある中で、司馬遼太郎の「燃えよ剣」は代表的な小説である。それまで新選組と言えば隊長である近藤勇を主人公にしたものが中心であったのが、この作品以降は土方歳三がその座を取って代わることとなった。

もっとも冒頭ではかなりの悪党として描かれている。方々で気に入った女の処へ夜這いをかける武州多摩の田舎剣士。それを見咎めた八王子の甲源一刀流の師範代を斬り殺したことで抗争まで引き起こしている。

京都に上がる徳川将軍の警護として新選組を結成してからの池田屋事件や鳥羽伏見の戦いなどについても経緯が細かい。外国を追い出すという攘夷の機運の中で、時代の流れに戸惑う近藤と、単純に剣で幕府を守ろうとする歳三は、非常に対照的に描かれている。

隊法を破る隊員をことごとく死刑・切腹にする鬼副長だったが、お雪という女性に出逢ってからは人情味を帯びてくるというくだりは少しほっこりさせる。もっともこのお雪は創作だろうが。

投降した近藤は打ち首、沖田総司も病死した以降も、歳三と新選組は甲州勝沼・下総流山・下野小山・仙台と転戦を続け、(なぜか会津についての記述はない)、最終的に函館で陣営を張る。新政府軍との幾多の戦いの中で西洋兵法を学び、奇抜な戦術で陸軍を統率し、我先に敵地へと切り込む姿はさながらラストサムライと言えるだろう。

果たして映画はいつ公開されるだろうか。

「たゆたえども沈まず」

たゆたえども沈まず (幻冬舎文庫)
原田マハ
幻冬舎
2020-04-08


私は読書においては完全に文庫本派だ。持ち運びに便利だし、本棚でも場所を取らない。美術小説の第一人者 原田マハさんの本書は2017年の発刊以来ずっと待っていたのだが、この度ようやく文庫本化された。

表紙絵の通りこれはゴッホにまつわる小説である。19世紀のパリ美術界におけるジャポニズム旋風の一翼を担った日本美術商「若井・林商会」で働く加納重吉が1人目の主人公だ。彼は架空の人物だが、社長の林忠正は実在の人物であり、林の存在がこの小説執筆の動機となっている。

もう1人の主人公がグーピル商会の支配人としてブルジョワジー相手に美術商をしているテオドルス・ファン・ゴッホ。林忠正と重吉がこのテオに出会い、さらにそこに画家の兄フィンセントが登場し、4人が密接に絡みながら浮世絵や印象派という新しい時代の到来の中で奮闘する。

才能がありながらも売れない兄フィンセントと、それを献身的に支える弟テオ。悲劇的結末は不可避ながらも、そこに至る過程で林の助言や重吉の精神的支えがどれだけ大きかったかということをこの物語は描いている。

実際にはゴッホ兄弟と林商会との接点を示す証拠は存在しないのだが、つながりがあったはずだという推測のもとに小説は展開していく。そのリアリティ溢れる描写に読み手も引き込まれ、いつしか事実はきっとこうだったはずだと思わせる説得力がある。

もし悲劇が避けられたならどうなっていただろう。そんな物語も読んでみたいと思った。

「武蔵野の日々」

musashino

Ⅰ散歩から
  魅力
  光華殿の一夜
  平林寺
  流れ
  六郷用水
  泉の四季
  野の寺
  釣鐘池
  夏の終わり
  並木の村
Ⅱ木立のほとり
  生誕
  嵐の翌日
  けやき
  公園道路第一号
  むぎかり唄
  金色の夕
  野の墓地
  お祭
  酒場の詩
Ⅲ本棚から
  河畔の万葉歌碑
  武蔵野の文学
  独歩と武蔵野
  蘆花とみすずのたはごと
  地名考むさし野
  むらさき探訪

東京都の中央部、清瀬から世田谷あたりは昔から武蔵野と呼ばれていた。この地域の興趣は万葉集の時代から多くの文学や美術に著されている。しかし戦後の高度経済成長期における開発により、今やその面影はほとんど残されていない。本書は失われる直前の武蔵野の姿を伝える貴重な記録である。

1962年、著者は国木田独歩や徳冨蘆花に感銘を受け狛江市に移住する。そこで技術者として勤続する傍ら、休みの日は武蔵野の地をくまなく歩き続けた。ケヤキや樫の林と野と田畑が交互に広がり、その合間を谷や川が走る。そしてそこに農家や民家の村や町が点在する。秋の麦畑で刈り入れる農夫。木陰の泉で野菜を洗う老婆。色鮮やかな自然と素朴な人々の生活が溶け合う。こうした牧歌的な風景が紀行文、エッセイ、詩、写真といった様々な表現を通じて情感豊かに綴られている。

さらに著者は古典から近代にかけての武蔵野にまつわる文学研究や、武蔵野という地名の由来の考察、かつて自生していたという名草むらさきによる染め物の研究など、多角的な検証も行っている。実際に染めた紫の片布も挿し挟む遊び心も趣深い。

実はこの著者が今のギャラリーコンティーナの社長さんである。川崎の森のギャラリーが2018年の暮れに閉館したが、昨秋にめでたく横浜市青葉区で復活された。今春に武蔵野をテーマにした絵画展を開催されていて、その際にこの著書を貸して下さった。1967年に自費出版された本書は既に絶版だが、実に武蔵野愛に溢れる名著だった。私の美術の先生は武蔵野の先生でもあったのだった。

深田久弥 「雲の上の道」

第1章 出発まで
第2章 カトマンズまで
第3章 ベース・キャンプまで
第4章 ジュガール・ヒマール
第5章 ランタン・ヒマール
第6章 帰途
第7章 後日談

新型コロナウィルスの猛威が収まる気配を見せない。小池都知事の外出自粛要請を受けて、やむなく今週末は祈るような想いで引きこもっている。やることと言えばもっぱら沢山の読み途中になっていた本達の続きを読むことだ。これもその中の1冊。

恐らく現代の日本の山好き達に最も多大な影響を与えた作家と言えば、「日本百名山」を書いた深田久弥だろう。日本中の山々をくまなく登り、登山史とともに格付けをした「日本百名山」は山好き達の教科書となっている。

その深田久弥が1958年にヒマラヤにも登っていたことはあまり知られていない。結局どの山にも登頂できていないことが理由だろう。槙有恒隊がマナスルに初登頂した2年後のことだ。これはその時の紀行文である。

それまで彼は世界中の資料を掻き集めヒマラヤ登山史などの著書を2冊も書いており、ヒマラヤへの憧れは相当なものだった。しかし当時は海外の山へ行くことは容易なことではなかった。彼の登山隊は作家深田・画家山川有一郎・写真家風見武秀・医師古原和美からなり「Artist Alpine Club」と名付けられたが素人部隊に過ぎない。資金も支援もない。まずはその苦労が克明に綴られている。

コンテナ37箱にもなる物質を調達し、大勢の見送りを受けて何とか神戸港から出発する。海路を1ヶ月かけてインドのカルカッタまで、そこから灼熱の陸路を2週間かけてようやくネパールのカトマンズに到着する。そこで待っていた3人の有能なシェルパと80人のポーターと合流した。

目指したのはジュガールヒマールとランタンヒマールだった。8000m峰はないが、未踏峰の7000m峰が多く残るこの地域で、あわよくば初登頂できればという考えだったのだが、あいにく天候や予算等の都合により断念する。

しかしこの紀行文が面白いのは、よくある登頂記録には割愛されている麓の自然や村人達の生活が活き活きと描写しているからである。ヒマラヤの麓に色とりどりの花々や多様な木々が植生していることは知らなかったし、村人達の陽気さや信心深さも興味深かった。

2ヶ月に渡る山行中、深田隊長はいつもしんがりを山川氏と遅れて歩いて見事な山容を眺めたり、部落で一緒に踊ったりと、非常にのんびりした陽気なムードが漂っていた。私もヒマラヤに登頂することは出来ないだろうが、いつかこんなトレッキングに行ってみたいものである。コロナが収束したら。。

「氷壁」 井上靖

氷壁 (新潮文庫)
井上 靖
新潮社
1963-11-07


先日井上靖が1969年のノーベル文学賞の候補として検討されていたというニュースがあった。50年の期限を経た情報開示によって明らかになったらしい。私は子供の頃に映画「敦煌」を観て以来歴史小説家というイメージがあったが、山岳小説も書いていたことを知り読んでみた。

この「氷壁」の舞台は1955〜56年。社会人登山家の魚津と小坂の2人が前穂高岳東壁の冬季登攀に挑むのだが、最後のピッチでザイルが切れ小坂が墜落死してしまう。これは事故なのかそうではないのか、世間の騒動の渦中に魚津は投げ込まれてしまう。生前の小坂が惚れ込んでいた人妻 美那子や、小坂の妹かおるといった女性たちとの三角関係なども絶妙に絡み、600頁超の長さを感じさせなかった。

最も印象に残ったのは、生前の小坂が好きだったというロジェ・デュブラの詩「モシカアル日」。デュブラはフランスの登山家であり、この詩を和訳したのは深田久弥である。ダークダックスの「いつかある日」で知ってはいたが、原訳は初めて読んだ。

これまで山で死んだ登山家は数知れない。ビュブラしかり、深田久弥しかり。死して英雄となった者も多く、登山家にとっても本望かもしれない。しかし残された人達にとってはそうではない。それを考えさせられる小説だった。


富士山麓探訪2

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先日また富士山麓を探訪した。この日の天気は快晴で、河口湖畔の大石公園からの富士山もよく見えた。

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秋に人気のもみじ回廊にも寄ってみたが、既にほとんど散ってしまっており一足遅かった。

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ミシュランにも紹介されている久保田一竹美術館。中には入らなかったが、庭園だけでも見事だった。

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昼は御坂峠の天下茶屋でほうとうを食べる。ここには2階に滞在していたという太宰治の記念館もある。

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この日の最大の目的は河口湖美術館で開催中の「没後70年 吉田博展」。木版画を中心に約200点展示されており見応えがあった。

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北口本宮冨士浅間神社にも行ってみた。この吉田登山口からいつか登ってみたいが、私の体力では無理だろうな。

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最後は富士山レーダードーム館。かつてこのレーダーを山頂に建設したのが当時気象庁の担当課長だった新田次郎。彼のコーナーには遺品や直筆原稿なども展示されていた。

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かなり駆け足で回ったのだが、まだまだ見たい所が沢山残ってる。いっそ移住してしまいたいものだ。

小島烏水「日本アルプス 山岳紀行文集」



1. 鎗ヶ嶽探険記
2. 山を讃する文
3. 奥常念岳の絶巓に立つ記
4. 梓川の上流
5. 雪中富士登山記
6. 雪の白峰
7. 白峰山脈縦断記
8. 日本北アルプス縦断記より
9. 谷より峰へ峰より谷へ
10.飛騨双六谷より
11.高山の雪
12.日本山岳景の特色
13.上高地風景保護論
14.不尽の高根

先日のウェストンに続いて今回は小島烏水を取り上げたい。日本で最初の山岳会(後の日本山岳会)の創設者である。

小島烏水(1873-1948)は横浜の銀行員、つまり一介のサラリーマンだったが、山に対する情熱は並々ならぬものがあり、毎年有給を駆使して各地の山々を踏破し続けていた。まだ地図もなく猟師や修験者以外は山に登る者などいない時代である。元々文才もあったため、多くの紀行文も残しているが、その代表作が全4巻の「日本アルプス」であり、本著はそのハイライトを抜粋したものである。

冒頭に収録されている”槍ケ嶽探検記”は次のように始まる。「余が槍ケ嶽登山をおもひ立ちたるは一朝一夕のことにあらず。何が故に然りしか。山高ければなり。山尖りて嶮しければなり。」最初はこのような漢文体、後年は口語体と、時代により文体も変化しているが、言葉の美しさは変わらない。

苦労の末に槍ケ嶽登頂に成功し喜んだのも束の間、自分よりも先に登頂し紀行文を発表していたウェストンの存在を知ることになる。そのウェストンを訪ねた際に、日本でも山岳会を作ることを勧められるのである。この2人の出会いが日本登山史の幕開けとなった。

もう1人烏水に大きな影響を与えたのがジョン・ラスキンである。烏水の文章には山中で観察される岩石や植物について詳述しており、彼の博学にも感嘆するが、ラスキンも同様だった。また烏水も山と同じ位に美術を愛し、山岳画のみならず美術全般に通じていた。彼の収集した国内外の版画のコレクションは膨大なものであり、後年に横浜美術館に寄贈されている。

私が再び山にハマったきっかけは横浜美術館で観た丸山晩夏と大下藤次郎の水彩画だったが、これらも彼らと親交のあった烏水の所蔵だったらしい。烏水に感謝しなければいけない。

「奥の細道330年 芭蕉」展



「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。」

これは松尾芭蕉「おくのほそ道」の序文である。初めて触れた時は、読み辛い漢文訓読体にひるんだが、慣れるにつれて強く共感するに至った。江戸初期の北日本の史跡名所を巡る紀行文としても面白いし、随所で詠まれている俳諧も素晴らしい。何より生涯を旅に捧げた生き様と、情感豊かな自然描写に感銘を受けた。

この芭蕉と曽良による北への巡礼は1689年の春から秋にかけて。今年はその旅から330年ということで、これを記念した芭蕉展が出光美術館で催されていたので観に行った。場内には芭蕉翁にまつわる品々がずらりと展示されていた。まずは翁自筆の短冊や掛け軸。「古池や」の自筆短冊もあったし、自画の画巻も見事なものだった。また出光美術館は与謝野蕪村や池大雅らの文人画のコレクションで有名だが、蕪村の「奥之細道図」(重文)もあった。

そもそも奥の細道は、翁が敬愛する西行の500回忌に合わせて敢行されたもので、西行の和歌に詠まれた歌枕(名所旧跡)を巡る旅だった。本展では俵屋宗達の「西行物語絵巻」(重文)も展示されていた。

江戸から日光・松島・立石寺・月山、岐阜大垣まで600里(2400km)。いつか私も巡ってみたいものだが、歩いて回るのは絶対無理だ。

最後に私の好きな芭蕉翁の俳諧を3句挙げておく。

夏草や 兵どもが 夢の跡
雲の峰 幾つ崩て 月の山
旅に病んで 夢は枯野を かけ巡る

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