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「燃えよ剣」 司馬遼太郎

燃えよ剣(上) (新潮文庫)
司馬 遼太郎
新潮社
1972-06-01


女の夜市
六車斬り
七里研之助
わいわい天王
分倍河原
月と泥
江戸道場
桂小五郎
八王子討入り
スタスタ坊主
疫病神
浪士組
清河と芹沢
ついに誕生
四条大橋
高瀬川
祇園「山の尾」
士道
再会
二帖半敷町の辻
局中法度書
池田屋
断章・池田屋
京師の乱
長州軍乱入
伊東甲子太郎
甲子太郎、京へ
慶応元年正月
憎まれ歳三
四条橋の雲
堀川の雨
お雪
紅白
与兵衛の店

土方歳三を描いた小説「燃えよ剣」。この作品はちょうど映画化されたのだが、その公開がコロナの影響でずっと延期になっている。大抵の映画は原作を読んだ後に観るとガッカリすることが多い。でももう待てないので先に原作を読むことにした。

これまで新選組を描いた作品は多くある中で、司馬遼太郎の「燃えよ剣」は代表的な小説である。それまで新選組と言えば隊長である近藤勇を主人公にしたものが中心であったのが、この作品以降は土方歳三がその座を取って代わることとなった。

もっとも冒頭ではかなりの悪党として描かれている。方々で気に入った女の処へ夜這いをかける武州多摩の田舎剣士。それを見咎めた八王子の甲源一刀流の師範代を斬り殺したことで抗争まで引き起こしている。

京都に上がる徳川将軍の警護として新選組を結成してからの池田屋事件や鳥羽伏見の戦いなどについても経緯が細かい。外国を追い出すという攘夷の機運の中で、時代の流れに戸惑う近藤と、単純に剣で幕府を守ろうとする歳三は、非常に対照的に描かれている。

隊法を破る隊員をことごとく死刑・切腹にする鬼副長だったが、お雪という女性に出逢ってからは人情味を帯びてくるというくだりは少しほっこりさせる。もっともこのお雪は創作だろうが。

投降した近藤は打ち首、沖田総司も病死した以降も、歳三と新選組は甲州勝沼・下総流山・下野小山・仙台と転戦を続け、(なぜか会津についての記述はない)、最終的に函館で陣営を張る。新政府軍との幾多の戦いの中で西洋兵法を学び、奇抜な戦術で陸軍を統率し、我先に敵地へと切り込む姿はさながらラストサムライと言えるだろう。

果たして映画はいつ公開されるだろうか。

「たゆたえども沈まず」

たゆたえども沈まず (幻冬舎文庫)
原田マハ
幻冬舎
2020-04-08


私は読書においては完全に文庫本派だ。持ち運びに便利だし、本棚でも場所を取らない。美術小説の第一人者 原田マハさんの本書は2017年の発刊以来ずっと待っていたのだが、この度ようやく文庫本化された。

表紙絵の通りこれはゴッホにまつわる小説である。19世紀のパリ美術界におけるジャポニズム旋風の一翼を担った日本美術商「若井・林商会」で働く加納重吉が1人目の主人公だ。彼は架空の人物だが、社長の林忠正は実在の人物であり、林の存在がこの小説執筆の動機となっている。

もう1人の主人公がグーピル商会の支配人としてブルジョワジー相手に美術商をしているテオドルス・ファン・ゴッホ。林忠正と重吉がこのテオに出会い、さらにそこに画家の兄フィンセントが登場し、4人が密接に絡みながら浮世絵や印象派という新しい時代の到来の中で奮闘する。

才能がありながらも売れない兄フィンセントと、それを献身的に支える弟テオ。悲劇的結末は不可避ながらも、そこに至る過程で林の助言や重吉の精神的支えがどれだけ大きかったかということをこの物語は描いている。

実際にはゴッホ兄弟と林商会との接点を示す証拠は存在しないのだが、つながりがあったはずだという推測のもとに小説は展開していく。そのリアリティ溢れる描写に読み手も引き込まれ、いつしか事実はきっとこうだったはずだと思わせる説得力がある。

もし悲劇が避けられたならどうなっていただろう。そんな物語も読んでみたいと思った。

「武蔵野の日々」

musashino

Ⅰ散歩から
  魅力
  光華殿の一夜
  平林寺
  流れ
  六郷用水
  泉の四季
  野の寺
  釣鐘池
  夏の終わり
  並木の村
Ⅱ木立のほとり
  生誕
  嵐の翌日
  けやき
  公園道路第一号
  むぎかり唄
  金色の夕
  野の墓地
  お祭
  酒場の詩
Ⅲ本棚から
  河畔の万葉歌碑
  武蔵野の文学
  独歩と武蔵野
  蘆花とみすずのたはごと
  地名考むさし野
  むらさき探訪

東京都の中央部、清瀬から世田谷あたりは昔から武蔵野と呼ばれていた。この地域の興趣は万葉集の時代から多くの文学や美術に著されている。しかし戦後の高度経済成長期における開発により、今やその面影はほとんど残されていない。本書は失われる直前の武蔵野の姿を伝える貴重な記録である。

1962年、著者は国木田独歩や徳冨蘆花に感銘を受け狛江市に移住する。そこで技術者として勤続する傍ら、休みの日は武蔵野の地をくまなく歩き続けた。ケヤキや樫の林と野と田畑が交互に広がり、その合間を谷や川が走る。そしてそこに農家や民家の村や町が点在する。秋の麦畑で刈り入れる農夫。木陰の泉で野菜を洗う老婆。色鮮やかな自然と素朴な人々の生活が溶け合う。こうした牧歌的な風景が紀行文、エッセイ、詩、写真といった様々な表現を通じて情感豊かに綴られている。

さらに著者は古典から近代にかけての武蔵野にまつわる文学研究や、武蔵野という地名の由来の考察、かつて自生していたという名草むらさきによる染め物の研究など、多角的な検証も行っている。実際に染めた紫の片布も挿し挟む遊び心も趣深い。

実はこの著者が今のギャラリーコンティーナの社長さんである。川崎の森のギャラリーが2018年の暮れに閉館したが、昨秋にめでたく横浜市青葉区で復活された。今春に武蔵野をテーマにした絵画展を開催されていて、その際にこの著書を貸して下さった。1967年に自費出版された本書は既に絶版だが、実に武蔵野愛に溢れる名著だった。私の美術の先生は武蔵野の先生でもあったのだった。

深田久弥 「雲の上の道」

第1章 出発まで
第2章 カトマンズまで
第3章 ベース・キャンプまで
第4章 ジュガール・ヒマール
第5章 ランタン・ヒマール
第6章 帰途
第7章 後日談

新型コロナウィルスの猛威が収まる気配を見せない。小池都知事の外出自粛要請を受けて、やむなく今週末は祈るような想いで引きこもっている。やることと言えばもっぱら沢山の読み途中になっていた本達の続きを読むことだ。これもその中の1冊。

恐らく現代の日本の山好き達に最も多大な影響を与えた作家と言えば、「日本百名山」を書いた深田久弥だろう。日本中の山々をくまなく登り、登山史とともに格付けをした「日本百名山」は山好き達の教科書となっている。

その深田久弥が1958年にヒマラヤにも登っていたことはあまり知られていない。結局どの山にも登頂できていないことが理由だろう。槙有恒隊がマナスルに初登頂した2年後のことだ。これはその時の紀行文である。

それまで彼は世界中の資料を掻き集めヒマラヤ登山史などの著書を2冊も書いており、ヒマラヤへの憧れは相当なものだった。しかし当時は海外の山へ行くことは容易なことではなかった。彼の登山隊は作家深田・画家山川有一郎・写真家風見武秀・医師古原和美からなり「Artist Alpine Club」と名付けられたが素人部隊に過ぎない。資金も支援もない。まずはその苦労が克明に綴られている。

コンテナ37箱にもなる物質を調達し、大勢の見送りを受けて何とか神戸港から出発する。海路を1ヶ月かけてインドのカルカッタまで、そこから灼熱の陸路を2週間かけてようやくネパールのカトマンズに到着する。そこで待っていた3人の有能なシェルパと80人のポーターと合流した。

目指したのはジュガールヒマールとランタンヒマールだった。8000m峰はないが、未踏峰の7000m峰が多く残るこの地域で、あわよくば初登頂できればという考えだったのだが、あいにく天候や予算等の都合により断念する。

しかしこの紀行文が面白いのは、よくある登頂記録には割愛されている麓の自然や村人達の生活が活き活きと描写しているからである。ヒマラヤの麓に色とりどりの花々や多様な木々が植生していることは知らなかったし、村人達の陽気さや信心深さも興味深かった。

2ヶ月に渡る山行中、深田隊長はいつもしんがりを山川氏と遅れて歩いて見事な山容を眺めたり、部落で一緒に踊ったりと、非常にのんびりした陽気なムードが漂っていた。私もヒマラヤに登頂することは出来ないだろうが、いつかこんなトレッキングに行ってみたいものである。コロナが収束したら。。

「氷壁」 井上靖

氷壁 (新潮文庫)
井上 靖
新潮社
1963-11-07


先日井上靖が1969年のノーベル文学賞の候補として検討されていたというニュースがあった。50年の期限を経た情報開示によって明らかになったらしい。私は子供の頃に映画「敦煌」を観て以来歴史小説家というイメージがあったが、山岳小説も書いていたことを知り読んでみた。

この「氷壁」の舞台は1955〜56年。社会人登山家の魚津と小坂の2人が前穂高岳東壁の冬季登攀に挑むのだが、最後のピッチでザイルが切れ小坂が墜落死してしまう。これは事故なのかそうではないのか、世間の騒動の渦中に魚津は投げ込まれてしまう。生前の小坂が惚れ込んでいた人妻 美那子や、小坂の妹かおるといった女性たちとの三角関係なども絶妙に絡み、600頁超の長さを感じさせなかった。

最も印象に残ったのは、生前の小坂が好きだったというロジェ・デュブラの詩「モシカアル日」。デュブラはフランスの登山家であり、この詩を和訳したのは深田久弥である。ダークダックスの「いつかある日」で知ってはいたが、原訳は初めて読んだ。

これまで山で死んだ登山家は数知れない。ビュブラしかり、深田久弥しかり。死して英雄となった者も多く、登山家にとっても本望かもしれない。しかし残された人達にとってはそうではない。それを考えさせられる小説だった。


小島烏水「日本アルプス 山岳紀行文集」



1. 鎗ヶ嶽探険記
2. 山を讃する文
3. 奥常念岳の絶巓に立つ記
4. 梓川の上流
5. 雪中富士登山記
6. 雪の白峰
7. 白峰山脈縦断記
8. 日本北アルプス縦断記より
9. 谷より峰へ峰より谷へ
10.飛騨双六谷より
11.高山の雪
12.日本山岳景の特色
13.上高地風景保護論
14.不尽の高根

先日のウェストンに続いて今回は小島烏水を取り上げたい。日本で最初の山岳会(後の日本山岳会)の創設者である。

小島烏水(1873-1948)は横浜の銀行員、つまり一介のサラリーマンだったが、山に対する情熱は並々ならぬものがあり、毎年有給を駆使して各地の山々を踏破し続けていた。まだ地図もなく猟師や修験者以外は山に登る者などいない時代である。元々文才もあったため、多くの紀行文も残しているが、その代表作が全4巻の「日本アルプス」であり、本著はそのハイライトを抜粋したものである。

冒頭に収録されている”槍ケ嶽探検記”は次のように始まる。「余が槍ケ嶽登山をおもひ立ちたるは一朝一夕のことにあらず。何が故に然りしか。山高ければなり。山尖りて嶮しければなり。」最初はこのような漢文体、後年は口語体と、時代により文体も変化しているが、言葉の美しさは変わらない。

苦労の末に槍ケ嶽登頂に成功し喜んだのも束の間、自分よりも先に登頂し紀行文を発表していたウェストンの存在を知ることになる。そのウェストンを訪ねた際に、日本でも山岳会を作ることを勧められるのである。この2人の出会いが日本登山史の幕開けとなった。

もう1人烏水に大きな影響を与えたのがジョン・ラスキンである。烏水の文章には山中で観察される岩石や植物について詳述しており、彼の博学にも感嘆するが、ラスキンも同様だった。また烏水も山と同じ位に美術を愛し、山岳画のみならず美術全般に通じていた。彼の収集した国内外の版画のコレクションは膨大なものであり、後年に横浜美術館に寄贈されている。

私が再び山にハマったきっかけは横浜美術館で観た丸山晩夏と大下藤次郎の水彩画だったが、これらも彼らと親交のあった烏水の所蔵だったらしい。烏水に感謝しなければいけない。

「奥の細道330年 芭蕉」展



「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。」

これは松尾芭蕉「おくのほそ道」の序文である。初めて触れた時は、読み辛い漢文訓読体にひるんだが、慣れるにつれて強く共感するに至った。江戸初期の北日本の史跡名所を巡る紀行文としても面白いし、随所で詠まれている俳諧も素晴らしい。何より生涯を旅に捧げた生き様と、情感豊かな自然描写に感銘を受けた。

この芭蕉と曽良による北への巡礼は1689年の春から秋にかけて。今年はその旅から330年ということで、これを記念した芭蕉展が出光美術館で催されていたので観に行った。場内には芭蕉翁にまつわる品々がずらりと展示されていた。まずは翁自筆の短冊や掛け軸。「古池や」の自筆短冊もあったし、自画の画巻も見事なものだった。また出光美術館は与謝野蕪村や池大雅らの文人画のコレクションで有名だが、蕪村の「奥之細道図」(重文)もあった。

そもそも奥の細道は、翁が敬愛する西行の500回忌に合わせて敢行されたもので、西行の和歌に詠まれた歌枕(名所旧跡)を巡る旅だった。本展では俵屋宗達の「西行物語絵巻」(重文)も展示されていた。

江戸から日光・松島・立石寺・月山、岐阜大垣まで600里(2400km)。いつか私も巡ってみたいものだが、歩いて回るのは絶対無理だ。

最後に私の好きな芭蕉翁の俳諧を3句挙げておく。

夏草や 兵どもが 夢の跡
雲の峰 幾つ崩て 月の山
旅に病んで 夢は枯野を かけ巡る

basho

ウォルター・ウェストン「日本アルプスの登山と探検」




ウォルター・ウェストン(Walter Weston, 1860-1940)。日本アルプスの父であり、日本近代登山史のルーツ的存在である。今日は彼の名著「日本アルプスの登山と探検」を取り上げる。

先日取り上げた新田次郎の「槍ヶ岳開山」にもあったように、江戸時代までは登山というものは修験者、祈祷者もしくは猟師だけのものだった。明治時代になってから初めて純粋にスポーツや観光目的が取り入れられることになった。それをもたらしたのが、開国後に来日した外国人達であり、その内の一人がイギリス人牧師のウェストンだった。

本著は彼が1891年から1894年にかけて中部地方の山々を登り続けた際の探検記である。機関車はまだあまり発達しておらず、移動は人力車か川下り。行く先々で登山したいと言ってもなかなか理解を得られない中、何とか賛同者を得ながら猟師や人夫を伴って各地の山頂を目指す。幾多の困難を乗り越えながら、浅間山に始まり、木曽駒、乗鞍、槍、立山、富士山、白馬といった名山を次々と踏破し続ける様子は痛快だ。

また本著が面白いのは、明治初期の国内の様子が外国人の視点で綴られているところ。まだ西洋文化に触れたことのない地方の村々では歓待と奇異の目で迎えられる。彼自身も外国人としてはかなり日本の文化に精通しているが、それでも様々な違いを痛感する。そしてそれは私達現代人にも通じるものがある。特に彼が見た山岳信仰の様子については興味深い。

山好きのみならず、古き良き日本を知りたい人にもお勧めの一冊。

新田次郎「槍ヶ岳開山」

新装版 槍ヶ岳開山 (文春文庫)
新田 次郎
文藝春秋
2010-03-10





1. 序章
2. 出郷
3. 笠ヶ岳再興
4. 槍ヶ岳への道
5. 鉄の鎖
6. 飢餓と法難
7. 終章

私が北アルプスで最も好きな山は槍ヶ岳である。あの遠くからでも分かる尖峰が特徴的だ。その槍ヶ岳を開山した修行僧の話と聞けば当然興味があった。それが新田次郎と聞けば尚更だ。

主人公は播隆上人。富山の農民の出だったが、百姓一揆の際に誤って妻おはまを刺殺してしまったことを機に、仏の道を歩き始める。読む前は、この播隆があてもなく彷徨った末に槍ヶ岳に登ったという話かと思っていたが違った。槍ヶ岳開山とは周囲の期待を背負ってのことであり、その前にも笠ヶ岳再興という仏業も成し遂げていた。

この本を読んでいると仏教界への理解も深まる。地域のためと事業を推進する飛騨国本覚寺、厳しい戒律の摂津国宝泉寺、商魂逞しい山城国一念寺。全く方針の異なる各寺での経験を経て、播隆が自身の信じる仏の道を歩き続ける様子に好感が持てる。また図らずも名を上げていく様子が面白いが、その結果物語は思いもよらぬ展開をみせていく。

私には信心はないが、登山は悟りへ近づくことだと言う播隆の言葉には分かる気がした。

「ジョン・ラスキンと地の大聖堂」

ジョン・ラスキンと地の大聖堂
アンドレ エラール
慶應義塾大学出版会
2010-07-01





序文 ラスキンの石について
第1部  山の発見へ(1823年〜1835年)
 第1章  青い山々
 第2章  あそこに、エギーユが!(1833年)
 第3章  とどまれ、とどまれ、そして眺めよ、あれはシャモニーだから!(1835年)
第2部  ソシュール、ターナー、クーテットを道案内として(1842年〜1844年)
 第4章  私がしたい仕事……(1841年〜1842年)
 第5章  夜明けに孤立した山の頂上に立ち給え……(1843年)
 第6章  新しいガイド、ジョゼフ・クーテットとビュエに登った(1844年)
 第7章  私はアルプスの真の秘密のいくつかに近づいた(1844年の日記)
第3部  ヴェネツィアとシャモニ−のあいだ……(1845年〜1856年)
 第8章  私の本当の国(1845年〜1846年)
 第9章  シャモニ−では、革命はなかった(1847年〜1849年)
 第10章  私は『ヴェネツィアの石』の代わりに『シャモニーの石』を書いていただろう…(1849年〜1856年)
 第11章  山の美について、あるいはシャモニーの石(1856年)
第4部  失われ、見出されたたシャモニー(1856年〜1888年)
 第12章  シャモニ−は完全に汚染された(1856年〜1865年)
 第13章  アルパイン・クラブの紳士たち……(1865年)
 第14章  親愛なるシャモニーの老ガイドは逝った(1865年〜1877年)
 第15章  雲なきシャモニーの雪のやすらぎの下に(1877年〜1900年)

三菱一号館美術館で「ジョン・ラスキン生誕200周年記念 ラファエル前派の軌跡展」をやっていた。ラスキンの山岳画を目的に行ってみたところ、「ラ・フォリの滝」など僅かながら拝むことが出来た。ラスキンとターナー以外はほとんど良く観なかったが。。

ジョン・ラスキン(John Ruskin, 1819-1900)はイギリスの美術評論家・思想家である。建築や地質学、社会学など幅広い分野の著作があるが、中でも特にアルプスの山岳美について多く著した。これはそんな彼の山との関わりをテーマとした伝記である。ちなみに本著は先日登った丹沢山みやま山荘の本棚にも置かれていた。

彼はイギリスの裕福な商人の一人息子として生まれた。子供の頃に家族旅行で訪れたフランスのシャモニーでアルプスの美に魅了される。彼は身体が弱かったこともあり、登山にはあまり興味を持たなかったかわりに、ひたすら観察することに執心した。

通常シャモニーと言えばモンブランだが、彼はそれよりもエギーユ(先鋒)群に心を奪われた。氷河や岩石の研究をし、わずか15歳で地質学の論文を発表している。また山は美術の対象でもあり常にスケッチをしていた。随所に引用される彼の日記や著作には、彼のシャモニーでの詳細な観察が記録されている。朝焼けの先鋒、刻々と変化する雲、白く輝く氷河、etc。シャモニーの山岳美を誰よりも良く理解し表現していた。

当時イギリスの美術界で山岳画を描いていたのはターナーくらいだったが、その頃は画風が変わり酷評されていた。そのターナーを擁護するために「近代画家論」を執筆したのもこうした流れだった。

一方でラファエル前派と呼ばれる若い画家達も支援していたが、その中のジョン・エヴァレット・ミレイに妻を盗られたのは有名な話だ。これを読むと彼の過保護な両親が彼らの結婚生活を破綻させたことが分かる。

一時はシャモニーの土地まで購入した彼だったが、その後のリゾート開発や氷河の後退といった景観の変化には憤慨した。きっと今のトンネルやロープウェイを見たら卒倒するかもしれない。それでも彼の愛したシャモニーを一度訪れてみたいと思う。

Cascade_de_la_Folie_1849
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