Books

「水を縫う」 寺地はるな

ダウンロード

第一章 みなも
第二章 傘のしたで
第三章 愛の泉
第四章 プールサイドの犬
第五章 しずかな湖畔の
第六章 流れる水は淀まない

娘の中学校では、授業の前に朝読書なる時間がある。皆それぞれが好きな本を10分間読むことになっているのだが、これはなかなかに良い習慣だと思う。娘はそこで読むために何か面白そうな本をということで、本書を買ってきた。彼女が読み終わった後に、私も借りて読んでみたが、なかなか考えさせられる本だった。

主人公は中学1年の男子生徒 清澄。友達はおらず、毎日帰宅すると同居する祖母と裁縫に熱中している。彼の姉 水青(みお)が結婚することになるのだが、真面目で固い姉はウェディングドレスを着たがらない。そんな姉のために彼がオリジナルのドレスを作るというのが、大まかなストーリー。

清澄が主人公だと思っていたが、第2章は姉の水青の目線で綴られていた。そして第3章は母、第4章は祖母、と主人公が次々と変わっていく。これは家族それぞれの視点でストーリーを見るという面白い構成だと思った。実は離婚した父が金銭感覚のないファッションデザイナーで、ストーリーの中では結構重要な存在なのだが、残念ながら父目線の章は最後までなかった。これもきっと意図があるのだろう。

さて、本書のテーマとなっているのが、色んな人達が抱えている生き辛さについてである。登場人物は皆周囲から男らしさや女らしさを求められるのだが、自分の異なる価値観とのギャップに思い悩む。今の時代らしい小説だと感じた。

かく言う私は、正直言えば古い価値観の人間である。男たるもの男らしさが大事で、弱音も吐かず心身共に強くあるべきだと信じて生きてきた。もし私に息子がいたら、きっとそのように強制していた可能性は高い。しかし娘に対してはとかく気を使うもので、可愛らしい服や習い事なども強制しなかったし、できなかった。

今の時代は社会に女性視点やLGBTQも認められつつあり、時代が変わっているということを痛感する。古い世代は価値観をアップデートすることに苦労しがちだが、相手の気持ちに寄り添うといことを意識すれば、それほど難しいことではないだろう。

「マナスル登頂記」 槇有恒

u1063094722

もう7年前になるが、購読している毎日新聞の誌面に「マナスル登頂60周年」というような文字が踊っていた。当時の登山隊を後援していたのが毎日新聞だったというのもあるのだろう。

マナスルは8,125mで世界第8位のヒマラヤの高峰で、1956年に日本が初登頂をしている。その登山隊の隊長が槇有恒(1894-1989)。若い頃にはアイガー東山陵初登攀の達成も果たした著名な登山家である。彼のマナスル登頂に関する著書を探していたのだが、ようやく見つけた。

第一次登山隊は悪天候と準備不足のため途中撤退。第二次登山隊は麓のサマ村民の反対により、あえなく断念していた。槇隊長の登山隊は満を持しての第三次となる。

隊員は12名、シェルパは20名、ポーターが400名。3月11日にカトマンズからマナスルの麓までの200kmの行程を大行列になって徒歩で行軍する。各地でテント露営しながら険しい崖や危険な吊り橋など悪路を進むが、誰1人怪我をさせなかったらしい。

通り抜ける村々は、標高が上がるにつれてネパール文化圏からチベット文化圏に入る。そして最後のサマ村に着く。マナスルを聖なる山とするサマでは、第一次登山隊が村に厄災をもたらしたとして、日本の登山に反対していた。第三次登山の前に話をつけていたはずが、またしても妨害に遭う。最終的に村が要求する金を支払うことで通過が許可される。

3月30日、ようやく到着したベースキャンプ(3,850m)から荷上げを開始する。クレバスやアイスフォールの危険なマナスル氷河を越え、第1キャンプ(5,250m)、第2キャンプ(5,600m)と登っていく。62歳と高齢の槙隊長は体力や体調のせいで遅れがちだが、毎日的確な指示を出す。C3(6,200m)、C4(6,550m)と標高が上がるにつれ空気も薄くなり、高山病や肺炎に罹る者も出てくる。C4とC5(7,200m)の間では雪崩も発生するが、幸い全員無事だった。

そして5月9日快晴、第1アタック隊の今西隊員とシェルパのガルツェンがC6(7,800m)から酸素補給器を背負って山頂へ向かう。無線は繋がらなかったが、見えない山頂部から降りてきた彼らの万歳する姿を確認し、槙隊長は目頭を熱くしたという。挿入された今西隊員の手記がまた良かった。

このマナスル初登頂のニュースには日本中が沸いた。戦後意気消沈していた日本がようやく先進国と肩を並べることが出来たのだ。しかし槙隊長は「マナスルを征服したとは思わない。私にとって自然は尊いもの」と謙虚だった。

4年前には在住だった茅ヶ崎で回顧展を開催していたので見に行ったこともある。半世紀自宅の倉庫に眠っていた装備品などが展示されていて身近に感じられた。

a000862764_03

「C.W.ニコルの森の時間」

12203665

Spring春(北極光;バンクーバーの木々;勇魚 ほか)
Summer夏(虫刺されにご用心;野尻湖の命運;DNAの銀行 ほか)
Autumn秋(岩手県民の誇り;急流下り;諫早湾の埋め立て ほか)
Winter冬(開発という名の自殺行為;ワンワン狂奏曲;カワウソ一家 ほか)

去る2020年4月にC.W.ニコルさんが亡くなった。環境保護活動家として有名だが、色々な経歴の持ち主であり、昔は番組やCMなどテレビにも良く出演していた記憶がある。遅ればせながら図書館で著書を見つけたので読んでみた。

生まれは1940年イギリスのウェールズ。プロレスラーのアルバイトの後、北極調査員、捕鯨調査員、カナダ環境保護局員、エチオピア国立公園長などを経て、1962年に好きな空手の日本に来た。来日後は精力的に環境保護活動を行う傍ら、作家や音楽家などとしても活躍した。

長野県北部の黒姫山の麓に居を構え、長年に渡り再生に取り組んだ森林を「アファンの森」と名付けた。また日本全国の自然環境破壊を止めるには、自然を守るレンジャーを育成する必要があると提唱し、設立された東洋工学環境専門学校の副校長に就任している。

西洋人には珍しく日本の捕鯨に対しても理解があったが、それは元々北極のイヌイットと生活をした経験などがあったからだった。商用ではなく、あくまでも生活としての狩猟を行うことは、生態系を理解し自然を敬うことへと繋がっている。

スキー場は建設のために貴重な原生林を切り倒しただけでなく、雪が溶けるのを防ぐために使用される硫酸アンモニウムが水質低下を招くこと。生態系を壊す護岸工事の代わりに、河岸に柳の木を植えるのが効果的なことなど、知らなかった自然保護の視点も多くあった。

日本や世界各地の様々な木々や花々、動物や鳥や昆虫などへの深い洞察。それを破壊する政府や企業に対する厳しい提言。今から30年前の著書だが、改善された点もあれば、変わらない点もある。

晩年は毎日新聞に月1でコラムを書いていた。アファンの森から届けられるその文章を私は毎月楽しみにしていたのだが、急逝により連載もぱったりと終わってしまったのが寂しかった。今更ながら惜しい人を亡くしたと思う。

「太平洋ひとりぼっち」

51zgLnVNCcL._SL500_

1. 太平洋への夢
2. 先輩たちとヨット購入
3. マーメイド号誕生
4. 周囲の猛反対
5. 出発準備
6. 搭載品
7. 日本脱出
8. 悪戦苦闘の連続
9. 走れ、走れ!
10. 日付変更線を超える
11. 風なし波あり
12. 北風よ早く来い
13. 天測不能位置だせず
14. お母ちゃん、ぼくきたんやで

昨年、世界最高齢で太平洋を単独横断したとニュースになっていた。堀江謙一さん、83歳の快挙である。堀江さんは1962年に日本人として初めて太平洋をたった1人でヨットで横断した方である。3つのギネス記録を持っているが、この時が最初の挑戦だった。

堀江さんは大阪出身で、高校の時に軽い気持ちでヨット部に入った。西宮のハーバーで日々厳しい練習に耐えた末に主将になり、イーターハイでは準優勝の成績を残している。

OB達とヨットを共同購入しレースなどに参加するものの、自分のヨットでシングルハンドでトランスパシフィックに行くという夢を実現したくなる。金を貯めて小さなマーメイド号を手に入れ、装備や食糧などを揃えていった。

1961年5月12日、23歳の時に西宮を出航した。しかし最初の20日間のうちに日本近海で嵐に4回も遭遇。荒れ狂う波風に揉まれ、胃が空になるほど吐き、思わず号泣する。

私も以前小さな漁船で御蔵島へイルカも見に行った時に、荒れた波に遭い船上から吐いた経験がある。しかしこんなに海に慣れた船乗りでも船酔いで吐くとは知らなかった。

またエンジンのないタイプなので、動力は風なのだが、操作の仕方で風向きと違う方向に進路を取ることが出来るということも知らなかった。しかし風が凪いでいたら全く動力はなくなる。太平洋のど真ん中で、何日も全く風が吹かずに苦労する様子が何度も綴られている。

見渡す限りの海原で、様々な生物にも遭遇する。空を飛んでいく渡り鳥、幻想的なクラゲの大群。サメ、クジラとも併走するが、体当たりされたら9ミリの船底に穴が空いてしまうのでヒヤヒヤする。

測量で現在位置を計測し、僅かな風も掴もうとセールやテイラーを操作し続ける。水を節約するために、雨水や海水・ビールで米を炊く。時折受信する各国のラジオ電波や、満天の星空に慰められる。そんな孤独な戦いを3ヶ月続けた後、8月12日に目標にしていたサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジに到達するのだった。

初めて読んだヨットの世界は知らないことが多くワクワクさせられた。ちなみにこれは1963年に石原裕次郎の主演で映画化もされている。


「八月の六日間」

51LED5unoNL._SY291_BO1,204,203,200_QL40_ML2_

1. 九月の五日間
2. 二月の三日間
3. 十月の五日間
4. 五月の三日間
5. 八月の六日間

今週8月11日は山の日なので、今日はそれに相応しい一冊を。これは何年か前に、渋谷のブックカフェにふらっと立ち寄った時に、タイトルと表紙絵に誘われ、たまたま手に取った小説だった。

主人公はアラフォーの独身女性。都内の出版社に雑誌の副編集長として勤めている。まとまった休みが取れると、あちこちの山に単独行で登りに行く。

まず「九月の五日間」で向かうのは、北アルプスの表銀座だ。有明温泉で前泊してから合戦尾根を登り燕岳へ。そこから絶景の尾根を歩き続け、へとへとになり夕方遅くに大天荘で一泊。3日目に東鎌尾根を登り、槍ヶ岳にアタックし恐怖に涙しながら登頂。最後ヒュッテ大槍に泊まってから上高地へ下山し、翌日からはまた仕事だ。

私も今から20年近く前にこれと同じルートを辿ったことがあるが、あの時私は上記に加え燕山荘にも泊まっているから、かなり余裕のある日程だった。彼女の日程では苦しいだろう。遠く見えていた槍ヶ岳の尖塔が徐々に大きくなってくる様子、そしてその山頂に立った時の感動も鮮明に思い出せる。

「二月の三日間」は雪の裏磐梯。「十月の五日間」は上高地からの常念尾根縦走。「五月の三日間」は雪嵐の天狗岳。そして「八月の六日間」は雲の平から三俣蓮華岳・双六岳の縦走。色々なハプニングに見舞われながらも、コース設定、スノーシューや軽アイゼンなど徐々にステップアップしていく。

山上にいても思い出すのは下界のことだ。仲の良い同僚。気の合わない編集長。作家の先生方。亡くなった幼なじみ。以前別れた男。数年間の時間経過の間に様々な変化もある。また山上での同じような女性単独行者たちとの出会いも、山行に彩りを添える。

ちなみに女性を主人公とした山岳小説はあまり読まないが、色々な女性視線が新鮮で、著者が男性と知り驚いた。テンポ良い展開や散りばめられたユーモアも飽きさせない。今の時代、実際に山へ行くと女性単独行者には良く会うが、私なんかよりもよほど体力も経験もある人が多く驚かさる。やはり女性の時代なのだろう。

最後に気に入った一節を。
「思い通りの道を行けないことがあっても、ああ、今がいい。わたしであることがいい。」


「空海の風景」 司馬遼太郎

20230402153936148888_4a680af1c2dc4c529635aaae164a6b06

私は無神論者である。何の宗教に対しても信仰心を持たない。しかし最近は親や親戚の葬儀であったり、歴史探訪の寺巡りなどで、図らずも仏教に触れることが多くなった。しかし仏教は歴史も宗派も複雑過ぎる。そこで今回試しにこれを読んでみた。今年は真言宗の開祖である弘法大師こと空海の生誕1250年らしい。確か高幡不動尊も真言宗だった。

空海は奈良時代の末期に、讃岐国の佐伯氏という地方豪族の家に生まれる。幼少より才を認められ、15歳で奈良の大学に入学する。しかし儒教よりも仏教の方が優れていると感じ、大学を中退し修験の旅へと出る。

ここで空海が真理だと考えたのがインドを発祥とする密教だった。現世を否定する釈迦の仏教に対して、密教は現世や諸現象は宇宙の真理であるとし、呪術や曼荼羅・即身成仏などを通して形而上化したもの。らしいが私にはいまいち理解出来なかった。

その密教を学ぶために空海は遣唐使船に乗り中国へと渡るが、私僧であったためにその莫大な費用は全て自費だったらしい。唐の都長安で密教の権威である恵果から第八世として師位を引き継ぐことに成功するが、恵果はその直後に他界している。帰国した後、空海は書芸や試才から後の嵯峨天皇に気に入られ、東大寺別当に任ぜられ、官寺として京都の東寺も与えられる。最期は高野山で入定したと信じられている。

面白いのは、この時代のもう1人の重要人物である最澄との関係だ。最澄は桓武天皇に重用され、国僧として同じ遣唐使船に乗って唐へ渡り天台宗を学んだ。空海より先に帰国したが、かじった程度に学んだ密教の方を桓武天皇にもてはやされてしまう。このため後半生は空海に教えを乞い続けるのだが、邪険にされた挙句に弟子まで取られてしまうのだった。

ちなみに本書は小説ではなく、ドキュメンタリーのような体裁を取っている。そのため膨大な資料から史実を見つけ、そこから空海らの心情を推察する司馬遼太郎の手法がより見事に感じられた。尚、今年は司馬の生誕100年でもある。

「新編 日本の面影」ラフカディオ・ハーン

199999212004

1.東洋の第一日目
2.盆踊り
3.神々の国の首都
4.杵築―日本最古の神社
5.子供たちの死霊の岩屋で―加賀の潜戸
6.日本海に沿って
7.日本の庭にて
8.英語教師の日記から
9.日本人の微笑
10.さようなら

最近は仕事でもっぱら毎日のように人材採用の面接をしている。そんな中で先日はスペイン人の男性に内定を出した。これまでアジア系女性がいたことはあったが、西欧人は初だ。彼は元々日本の漫画やアニメが好きで来日したが、より深く日本文化を知り長く住むことになったらしい。最近はこういう西欧人は多い。

明治の開国当時も多くの外国人が日本にやって来たが、この人ほど日本を愛した人はいないだろう。ラフカディオ・ハーン。1890年(明治23年)に来日したイギリス人で、帰化してからは小泉八雲と改名している。

彼は古事記の英訳を読み、日本の神道に強い興味を抱いていた。日本で最古の神社のある出雲国の松江に英語教師として赴任し、尋常中学校と師範学校で教える傍ら、日本の地方の人々の生活や文化に深く傾倒していく。

日本に古くから残る伝承や昔話を興味深く集め、町並みや生活雑貨の造形美に感嘆し、自然や死者に対する信仰心に感銘を受ける。そうした日本の素晴らしさを諸手を上げて賛美する様子は、読んでいてむず痒いくらいだが、一方で流入してくる外国の影響で失われていく様子を嘆くのには共感した。

一つ目のハイライトは、彼が出雲大社に詣でる箇所だろう。悠久の歴史の中で、初めて外国人として昇殿拝礼を許され、宮司に歓待を受ける様子は興味深い。同時に神道がどういうものなのかを、外国人である彼に教えてもらうこととなる。

二つ目のハイライトは、彼が松江から旅立つ場面。結局松江には1年7ヶ月しか滞在しなかったのだが、何百人という教え子や街の人々が、別れを惜しんで船で離れる彼を見送った。松江という街を愛し、街に愛された彼の感動的なラストシーンた。

古き良き時代を知るほどに、色々と取り返しのつかなくなったこの現代ではなく、昔を生きたかったという想いが募るのをどうしたものだろうか。

「箱根の坂」 司馬遼太郎

EK-0273781

1. 若厄介
2. 京
3. 伊勢殿
4. 新九郎
5. 千萱
6. 駿河舞
7. 骨皮道賢
8. 一夜念仏
9. 兵火
10. 出奔
11. 早雲
12. 急転 他

神奈川のヒーローの1人に北条早雲がいる。戦国大名のさきがけであり、小田原城から相模・武蔵の国を治めた後北条氏の始祖である。2019年に没後500年が話題になっていた時はスルーしていたが、この度彼を題材にした司馬遼太郎の小説を見つけたので読んでみた。

北条早雲は元の名を伊勢新九郎といった。京都で足利将軍の執事である伊勢家の傍流であるが、邸内のボロ小屋で鞍作りをする日々を送っていた。当時の京都は応仁の乱で荒れていた。新九郎は8代将軍義政の弟義視の申次衆でもあったことから、乱に巻き込まれていく。

新九郎には千萱という妹がいた。彼女が北川殿として駿河国の守護今川義忠に嫁ぐのだが、義忠が早くに戦死してしまうことで、新九郎にも転機が訪れる。今川家の跡継ぎ問題が起き、後継となるべき北川殿の子氏親を助けるために駿河国に向かう。

興国寺に小さな城を構え、駿河の跡継ぎ問題を解決した後に彼の快進撃が始まるのだが、既に齢60を超えている。伊豆の堀越公方に起きた変事を好機と捉え、駿河の兵を率いて伊豆を平定してしまう。鎌倉時代の執権北条氏の韮山に居を構えたため、国人から北条殿と呼ばれたが、彼自身は北条を名乗ったことはなかった。

後に小田原や三浦半島まで攻め入り相模国まで平定してしまうのだが、それは野心によるものではなかった。室町時代は鎌倉時代とは違い、農業技術の発展により百姓が力を持つようになっている。そうした時代を読み取り、百姓に声を掛けたり租税を軽くするなどした彼の統治の仕方が広い支持を集めたのだった。

ちなみに司馬遼太郎がこの作品を書いたのは1983年だが、その頃は早雲の誕生年は1431年とされていた。そのため1519年に88歳で没し、後年は高齢ながら戦に出たことになっている。しかし今では早雲の生まれたのは1456年が正しいとされており、ストーリーにおける年齢設定は大きく変わってくる。

ただいずれにせよ、早雲が残した功績が歴史的に大きな意味を持っていることは変わらないだろう

「西行」 白洲正子

西行

私は旅が好きだ。そして旅人が残した作品が好きだ。それを読んだり鑑賞することで自分も旅への想いを馳せることが好きだ。

私の好きな旅人の1人である松尾芭蕉について以前に書いたことがある。あの時は奥の細道330年ということで、企画展なども催されていた。奥の細道は松尾芭蕉が敬愛する西行の500回忌に合わせて、西行の足跡を辿る旅であった。今回はこの西行について書いてみたい。

西行(1118-1190)は平安末期から鎌倉初期まで活躍した歌人である。彼は元々は京都の武士だったが、若いうちに出家してからは和歌を詠みながら日本全国を旅して巡った。私が知っていたのはこの程度だったが、今回この白州正子の本書を読み、より深く理解することが出来た。

西行の元々の名は佐藤兵衛尉義清といい、鳥羽院の警固武士であった。皇族や平家とも深いつながりを持っていたが、恋い焦がれた待賢門院璋子への想いを絶つため出家したという。白州正子が女性らしい感性で、その後の西行の歌の数々から彼の想いを読み取っている。

出家後は桜の吉野に始まり、熊野、鴫立沢(湘南)、高野山、讃岐、二見浦など各地を転々としている。あちこちで庵室を建て数年間ずつ暮らしていたらしいが、神奈川にも住んでいたとは知らなかった。白州正子がそれぞれの草庵跡や歌を詠んだ場所を探しに各地の山を果敢に分け入る紀行文も面白い。

西行は東日本へ若い頃と晩年と2回来ている。1回目は歌枕を情緒豊かに詠んでいるが、2回目は奥州の藤原秀衡に東大寺再建への寄付を依頼するためだった。その道中の鎌倉で源頼朝にも会っている。武道について問う頼朝に対し、西行は昔のことは忘れたと断り、貰った手土産も門外の子供に与えてしまったらしい。藤原の血筋であり西国の彼にとっては、東国の将軍は好ましい相手ではなかったのだろう。

以下はこの時の旅で詠んだ一首である。
風になびく富士の煙の空に消えて
ゆくへも知らぬわが思ひかな

この頃の富士山はまだ噴煙を上げていた。その煙に、晩年になってもなお行方知らぬ彼の心を重ね合わせている。私が最も好きな彼の一首である。芭蕉の頃は五七五の俳諧が流行っていたが、西行の頃は五七五七七の和歌の時代だった。和歌の方が情報量が多い分、そこに詠まれる情景や叙情が豊かだと思う。

ちなみに今ちょうど五島美術館で「西行〜語り継がれる漂白の歌詠み」も開催されている。西行自筆の手紙を始め、和歌集や西行物語絵馬など名品が一堂に展観されており、見応えがあった。漂白の歌人が詠んだ光景に思いを馳せた。

22西行展A4チラシ(表)-573x810

植村冒険館リニューアル

イメージ (1)

今日は夏休みにお勧めの施設をご紹介したい。昨年末に板橋区にある植村冒険館が区内で移転しリニューアルオープンした。これは植村直己生誕80年を記念したもので、加賀スポーツセンターと融合してのリニューアルとなっている。

イメージ_1 (1)
1階の入口を入るとすぐ左手に大きな木製ソリが展示されていて目を引く。これは彼が北極圏を冒険した時の犬ゾリのレプリカである。

イメージ_2
2階には、北極やエベレスト登頂の際の写真が大きなパネルで展示されていた。

イメージ
3階が冒険館のメイン施設。明治大学山岳部時代から始まり、五大陸最高峰登頂、アマゾン河いかだ下り、北極圏犬ゾリ冒険など、彼の数々の偉業が時系列を追って分かりやすく展示されていた。

イメージ_1
個人的に最も印象的だったのは、板橋の彼の自宅に遺されていた彼の蔵書棚と、世界各地から持ち帰った土産品の棚だった。

ちなみにこの時は「北極圏1万2000km」に関する企画展をやっており、その時の映像や写真なども展示されていた。

植村直己は日本を代表する冒険家であり、彼の生き様からは学ぶことが多いと思うのだが、残念ながらあまりこのリニューアルも一般的には知られていないようだ。これを機にもっと若い人達に周知してほしいと思っている。
Gallery
  • オンラインツアー③ - アイルランド編
  • オンラインツアー③ - アイルランド編
  • オンラインツアー③ - アイルランド編
  • オンラインツアー③ - アイルランド編
  • オンラインツアー③ - アイルランド編
  • オンラインツアー③ - アイルランド編
  • オンラインツアー③ - アイルランド編
  • オンラインツアー③ - アイルランド編
  • オンラインツアー③ - アイルランド編
Access
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

Categories
Comments