単独行について
冬・春・単独行ー八ヶ岳/乗鞍岳/槍ヶ岳/立山/奥穂高岳/白馬岳
一月の思い出 - 劒沢のこと
僕の単独(富士・冬)
私の冬山単独行
第2章 山と私
私の登山熱
山と私
山へ登るAのくるしみ
初めて錯覚を経験した時のこと
冬山のことなど
山に迷う
穂高にて
第3章 厳冬の薬師岳から烏帽子岳へ
初冬の常念山脈
槍ヶ岳・立山・穂高岳
厳冬の薬師岳から烏帽子岳へ
槍から双六岳及び笠ヶ岳往復
厳冬の立山、針ノ木越
第4章 山から山へ
北アルプス初登山
兵庫立山登山
縦走コース覚書
兵庫乗鞍-御嶽-焼登山記
兵庫槍-大天井-鷲羽登山
南アルプスをゆく-赤石山脈・白根山脈縦走
山行記
神戸附近の三角点
冬の氷ノ山と鉢伏山
春山行
加藤・吉田両君遭難事情及前後処置
後記(遠山豊三郎・島田真之介・加藤花子)
2度目の緊急事態宣言が発令中なので、休みの日は出来る限り外出を控えて、もっぱら読書に勤しむ。積み本というのだろうか、とかく読む本は常にある。
昭和初期の名登山家 加藤文太郎(1905-1936)。私が最初に彼を知ったのは坂本眞一の漫画「孤高の人」だった。これは実際の加藤文太郎の姿ではなく現代版のリメイクで、ボルダリングで頭角を現した彼が国内の高峰群を冬季単独行で制覇した後に、カラコルムのK2に挑むというストーリーだった。
その後に原作である新田次郎の名著「孤高の人」を読んだ。人付き合いの下手な彼が、一日で六甲山脈を全縦走したことを皮切りに、北アルプス等を冬季単独で制覇した末に、初めてパーティを組んだ北鎌尾根で遭難死したという内容。正に孤高という彼の山行に感銘を受けたものの、事実とは少し異なるということを知った。
そして行き着いたのが本人が書いたこの「単独行」だった。ここには彼自身による人間らしい飾らない言葉が綴られている。
文太郎は1905年に鳥取県浜坂の生まれだ。その後神戸で三菱造船の技師として働く傍ら、山歩きに目覚める。六甲山後の山行として本書ではその後の氷ノ山等の兵庫アルプスへの登山が頻出する。当地の各山を兵庫槍、兵庫乗鞍などと呼ぶあたりお茶目な一面を見せている。
憧れの日本アルプスに赴くようになってからは恐ろしい勢いで制覇していった。燕〜大天井・槍・穂高〜上高地〜乗鞍〜木曽駒を11日間で、戸台〜千丈〜甲斐駒〜台ヶ原〜八ヶ岳〜浅間山を5日間など、どれも単独行である。
夏期に全て制覇した彼はやがて厳冬期の山行へとのめり込んでいく。自ら登山経験を積む中で、行動食として甘納豆を常備したり、目出し帽を開発したりと工夫も重ねた。そして薬師岳〜烏帽子岳縦走や槍〜笠ヶ岳ピストンなど、充分な睡眠も取らずに夜通し踏破している。雪穴を掘って仮眠を取る際にも直前に温かいものを食べれば凍死しないと確信していたようだ。しかしとても常人は真似をしてはいけないだろう。
確かに彼は人付き合いが得意ではなかったが、決して常に孤独だったわけではなく、同じ山仲間と山行を共にすることもあった。しかし岩登りやスキーに苦手意識があったのと、彼の歩くスピードが人並み外れていたことから、必然的に単独行が多くなっていた。
昭和11年冬、文太郎は後輩吉田富久と北鎌尾根から滑落後に遭難し還らぬ人となった。新婚で娘も産まれたばかりだった。後記にある花子夫人の気丈な寄稿文が胸を打つ。
私自身も山行は基本的にいつも単独なので、この偉大な先人から学ぶことは多かった。しかし単独行に付き纏う危険については常に注意しなければならないという思いも新たにした。