神奈川県

寄ロウバイまつり

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2月初旬、毎年この時期に気になっていた松田町の寄ロウバイまつりを見に行って来た。寄は"やどりき"と読み、丹沢の麓の村である。小田急線新松田駅からバスに乗って行く。

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ここは元々地元の中学校の卒業記念でロウバイを植えるようになったことが始まりらしい。山の斜面に2万本のロウバイが満開だった。

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良い香りだが、どこか油っぽい香りが辺り一面に漂っており、その蜜を吸いに小さなメジロが沢山集まっていた。

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中には河津桜のピンクも混じっていた。松田町には河津桜が一面に咲くさくらまつりもこの時期開催される。

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腹が減ったので、売店でちまきと、ピリ辛こんにゃく、そして4色団子を買って食べたが美味かった。

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正面にはシダンゴ山(758m)が聳えていた。裏の山の尾根を辿ると鍋割山にも行けるらしい。久しぶりに山頂で鍋焼きうどんが食べたいなぁ。

大磯探訪

先日鴫立庵を訪れた際に時間があったので、ついでに大磯のめぼしいところを少し巡ってみた。

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<鴫立庵>
最初の目的地がここ。平安時代の歌人西行が旅路で和歌を詠んだ地に建てられた鴫立庵。詳しくは先週。

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<旧島崎藤村邸>
明治期の文豪が晩年を過ごした家。大磯の左義長(どんど焼き)に惚れ込んで移住した彼は、この部屋で71歳で他界。最期の言葉は「涼しい風だね」だったそう。

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<古民家カフェこゆるぎ庵>
旧島崎藤村邸の目の前にある古民家カフェ。懐かしい感じの邸宅で、お洒落なガレットとタルトのセットを堪能した。

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<東海道杉並木>
江戸時代に植えられた杉並木が当時を偲ばせる。太いものは樹齢400年になるそうだが、あいにく上の方は切られていた。

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<明治記念大磯邸園>
大磯はかつて人気の避暑地だった。明治期の政治家 大隈重信と陸奥宗光の旧別邸がここにあり、かなり大きな邸宅だったようだが、あいにく工事中だった。

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<照ヶ崎海岸>
せっかくだからと海岸に出てみた。静かに打ち寄せる海岸線の向こうには、神山・明神ヶ岳・金時山といった箱根の山々が見えた。

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帰るまでまだ時間があるなと思い、衝動的に山に向かって歩き出した。谷戸の住宅地を抜けて山道を登る。

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<湘南平>
若い頃当時の彼女とよく夜に車を飛ばして来た場所だが、昼にしかも徒歩で来たのは初めて。2人で錠前を掛けたテレビ塔は老朽化のため閉鎖されていた。

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湘南平にこんなのがあるのを初めて知った。彼は小島烏水とともに日本山岳界の黎明期を拓いた人物だが、この土地の人だったらしい。

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360度の眺望は素晴らしく、大磯の町のみならず相模湾沿いの町並み全てと、伊豆半島・箱根・富士山・丹沢まで全ての山並みが一望出来た。

やっぱり神奈川は良いなぁ。

鴫立庵

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今年も娘の中学校では百人一首大会が開催された。今回娘は90句近く覚え、私とも練習を重ねた結果、クラスでも3本指に入る力をつけた。そして本番に臨んだ結果、1人で取りまくってチームを連勝させたらしく、鼻を高くして喜んでいた。

そんな娘を見て、私も和歌の世界に浸りたくなり、県内の歌枕を訪ねてみた。平安時代の歌人西行法師が東国を旅した際に立ち寄った鴫立沢。それが現在の神奈川県大磯であり、そこに建てられたのが鴫立庵(しぎたつあん)である。

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大磯駅から徒歩10分の国道1号沿いだが、静かな佇まい。西行の歌の通り沢が水音を立てて敷地内を流れている。石橋を渡り門を入る。

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鴫立庵は西行ゆかりであるこの地に江戸初期に建てられた俳諧道場で、以降代々引き継がれ現在の庵主が23代目。歴代庵主の句が展示されていた。

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藁葺き屋根の俳諧道場の軒下には、可愛らしい正月飾りが垂れ下がっていた。ここで俳句会が開かれるらしい。

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敷地内にある小さな円位堂には、等身大の西行像が祀られている。片膝を抱えた座像が風変わりで印象的だった。

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西行の歌碑「心なき身にもあはれはしられけり 鴫立つ澤の秋の夕暮れ」。聞いたところ、シギはここ20-30年の間に見なくなったらしい。

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こちらは西行を敬愛していた芭蕉の歌碑。ただし芭蕉はここを訪れてはいないらしい。何故だろう。

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「曽我物語」は隣町の有名な復讐劇だが、登場する虎御前は大磯の遊女らしい。これは彼女を祀った祠と碑石。

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1664年に小田原の崇雪という人がこの地に運んだ五体の石仏「五智如来像」。これが元となり、後年ここに庵が建てられた。

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庵が建った後に立てられた鴫立沢標石。裏面に刻まれた「湘南」の碑文が湘南という地名の由来になっている。


次に娘と百人一首をやる時は、私ももう少し句を覚えておかないとなぁ。

小机城址

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横浜市港北区にある小机城址に行ってきた。ここは室町時代に築城された平山城であり、続日本100名城にもなっている。長尾景春の乱の際には、東国の名将 太田道灌が攻めあぐねたことでも知られる。戦国時代に北条氏綱の重臣笠原信為が再興したが、それ以降の城主を務めたのが笠原家だったのか、北条家だったのかは諸説あるようだ。ただ武蔵国の要衝の1つだったのは確かだろう。

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小机駅を降りて、まずは城郷小机地区センターへ立ち寄る。ここで小机城について予習というか復習をする。

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住宅地を抜けて小机城址市民の森に到着する。城の麓にあったという屋敷地の根古谷を抜け、竹林の坂を登って行く。

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敵の侵入を防ぐために掘られた空堀。かなり深く掘られているが、時間の経過とともに堆積しており、当時は深さ12mあったらしい。

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東廓にある井楼跡(せいろうあと)。ここに武器を保管する兵器庫があったらしい。そばには敵の侵入を見張る櫓(矢倉)台もあった。

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井楼跡の先にある二の丸広場。かなり広いが、実際のところはどちらが本丸か二の丸かは分からないらしい。

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西廓にあるのが本丸広場。広さは二の丸広場と同じくらい。滝山城址と違い城址碑は小さいものが虎口の右手にひっそりと立っていた。

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残念なことに、この小机城址の本丸の西側は第三京浜でぶった斬られている。そちらには小高くなった富士塚があり、その頂上には富士仙元大菩薩の石塔が建っていた。

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小机駅前にある雲松院。ここは笠原信為が開基の寺で、墓地の一番奥の旗本笠原家の墓所には代々の17基の柱頭が並んでいた。

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小机城跡の近くには折本屋という和菓子屋があり、小机城址太鼓や城町カステラなどを販売している。

これまで10年ほど近くに住んでいながら、行ったことがなかった小机城址。日本史や関東史が地元の歴史につながっていくのは興味深いものだ。

三浦探訪〜油壺・城ヶ島

お盆の間に娘を元妻の実家に預けている間、少し自由な時間が出来た。向かったのはまたしても三浦半島。今回は半島の先端を目指した。

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<ソレイユの丘>
オートキャンプ場もあるレジャー施設。昼を食べに立ち寄ってみたが、家族連れなどで激混み。ひまわりが綺麗だった。

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<和田義盛の碑>
昨年の「鎌倉殿の13人」でも活躍していた和田義盛の領地がこのあたりにあった。在所に建てられた和田八雲神社と石碑。

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<油壺温泉>
小学生の頃に学校の自然教室で来たのだが、35年ほど前の話。当時観たマリンパークは既になくなりキャンプ場になっていた。

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<荒井城碑>
三方を海の断崖に囲まれた要害として知られた。北条早雲に追われた三浦道寸がここを最終決戦の地とし、3年の戦いの末に落城した。

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<三浦道寸の墓>
三浦一族の最後の当主。1516年に北条早雲に敗れ三浦家は滅亡した。「討つものも 討つたるるものもかわらけよ 砕けて後は 元の土くれ」が辞世の句。

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<海南神社>
三浦半島の総鎮守。三浦義明がここで占った結果、挙兵した源頼朝に加勢したと言われる。

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<源頼朝手植え大銀杏>
この付近に別邸を構えていた源頼朝が三浦家のために銀杏を手植えたと言われる。樹齢約800年。

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<ウミウ展望台>
三浦半島先端の城ヶ島へ。冬になるとウミウが北海道の千島列島から飛来するらしいが、あいにく季節外れ。代わりにトンビが飛んでいた。

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<馬の背洞門>
波の侵食で自然に出来た洞門。高さ8メートルあり、馬の背中に似ていることからこの名が付いた。

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夕陽の沈む海岸は非常に絵になる。浜辺には多くのスーツとドレス姿の新郎新婦達がカメラマンを連れて写真撮影していた。

衣笠山・大楠山

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三浦アルプスを歩いたのは確か昨年のゴールデンウィークだったが、今年のGWもみどり日にまた三浦半島にやってきた。この半島には山塊がいくつもあるが、今回は昨秋に登り損ねた衣笠山と、三浦半島最高峰の大楠山をつなぐ縦走ルートだ。

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9:15 衣笠駅から15分ほど歩くと衣笠山公園ハイキングコースの入り口に着く。ここから登山開始する。

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鳥の鳴き声が賑やかで、特にウグイス・ガビチョウ・コジュケイがやかましい。何か黒い小動物が横切って行くのも見えた。

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下の広場に忠犬タマ公像というのがあったが、それよりも三浦学苑の生徒が作ったという野鳥の彫刻群の方が気に入った。

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10:15 衣笠山(134m)の山頂に到着。展望塔に登ると、次に目指す大楠山と、その右奥に富士山がうっすらと見えた。

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一旦下った後に、住宅地の急坂を登り返すと大善寺と衣笠城址がある。でもここは昨年行ったから今回は素通りする。

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またしても山道を下り、縦貫道を陸橋で越えてから大楠山の登りが始まる。しかしここで眼鏡を落としたことに気付きテンションダウンして昼休憩を入れる。

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13:00 大楠山(241m)の山頂に到着。人気の山らしく、結構な人がいた。しかし展望塔も休憩所も閉鎖されていた。

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それでも眺望は悪くなかった。これは三浦半島最南端の山域である武山と三浦富士。次はあれに登るのだろうか。

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15:00 相模湾側の前田橋に下山。最後に小川沿いを歩いた前田橋遊歩道では、清流と水音に疲れが癒やされた。

一部コースが不明瞭だったり住宅地だったりしたが、総じて眺望が良く休憩場所もトイレも多かった。三浦アルプスよりもずっと歩きやすいと思う。

太平記を訪ねて

源頼朝が開き北条氏が引き継いだ鎌倉幕府は約150年続いた後に終焉を迎えることになる。この鎌倉時代の最期については「太平記」に詳述されている。昨年この太平記で知った史実を辿るためにも鎌倉を散策していたので、今回それをまとめてみた。

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<日野俊基墓>
1331年 後醍醐天皇の倒幕計画に関わった公家の日野俊基が、鎌倉に連行された後に今の源氏山で処刑された。山中には彼を偲ぶ墓と葛原岡神社がある。

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<新田義貞稲村ヶ崎徒渉伝説地>
1333年 新田義貞は討幕に立ち上がったが鎌倉を攻めあぐねた。満潮の稲村ヶ崎で金の剣を海に投げ込むと潮が引き、ここから鎌倉に攻め入り幕府を滅ぼしたらしい。

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<東勝寺跡>
東勝寺は北条家の菩提寺の1つだった。1333年 鎌倉幕府14代執権の北条高時一族は新田義貞軍にここへ追い詰められ火を放った。

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<北条高時腹切やぐら>
東勝寺で切腹した北条高時らが奥のやぐらに葬られた。ここが起点の祇園ハイキングコースは全面通行止であり、やぐらには近づけない。

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<北条首やぐら>
瑞泉寺の裏の天台山にも北条一族のやぐらが無数にあった。東勝寺で切腹したのは870人いたため、一箇所では到底葬りきれなかったのだろう。

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<宝戒寺>
元々は執権北条家の屋敷があった場所。後醍醐天皇が北条家滅亡後にその霊を弔うために、足利尊氏に命じて1335年に建立させた。

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<鎌倉宮>
後醍醐天皇の皇子だった護良親王(大塔宮)を弔うために明治天皇が建立した神社。護良親王は討幕の立役者の1人だった。

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<大塔宮御坐所>
護良親王が足利尊氏の弟直義に幽閉された土牢。狭くて暗い洞穴だったが、ここに冬を越す9ヶ月間幽閉されていた。

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<護良親王墓>
護良親王は幽閉後1335年に直義の命により無惨に殺された。後にこの墓所に葬られた。あいにく立ち入り禁止になっていた。

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<浄光明寺>
1335年に足利尊氏が後醍醐天皇へ反旗を翻す前に立て篭っていた寺。偶然に特別公開日にあたり、足利尊氏の弟直義の念持仏も見ることが出来た。

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<足利直義墓>
足利直義は兄尊氏の右腕だったが、高師直のせいで兄と仲違いし兄弟で合戦をした末に1352年に病死した。浄妙寺の奥のやぐらに直義の墓がある。

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<長寿寺>
足利尊氏の屋敷があった場所。尊氏自身がその邸跡地に1336年に建立した。尊氏墓もあり春と秋の週末にだけ一般公開されている。

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<足利尊氏墓>
尊氏は1358年に病死した。尊氏の子であり初代鎌倉公方の足利基氏によって長寿寺に頭髪を埋めた墓が建立された。

こうして鎌倉幕府は滅亡し、室町時代の政治の中心は京都に移るのだが、鎌倉にはその後も足利氏による鎌倉公方が置かれ東国の支配にあたった。この室町時代の東国の歴史も学んでみたい。

源義経を訪ねて

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源平合戦を勝利へと導きながらも、兄頼朝の怒りを買ってしまったために不運な最期を遂げた源義経。昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではかなりぶっ飛んだ人物描写がされていたが、悲劇のヒーローとして昔から人気がある。
そんな義経のゆかりの地が神奈川県内にも色々あることを最近知ったので訪ねてみた。
ちなみに上は、昨年行った大河ドラマ館に展示されていた義経のドラマ中の鎧とパネル。

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<満福寺>
まず有名なのは腰越。源平合戦を終え1185年に帰ってきた義経が、兄頼朝に鎌倉へ入ることを許されず、逗留していたのがこの腰越の満福寺。

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<腰越状>
満福寺には逗留時に書かれた腰越状の下書きが所蔵されている。重文にもなりそうなものだが、管理が面倒になるからとご住職。

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寺内には義経や弁慶を描いた浮世絵や襖絵など多くの美術品が展示されている。これは歌川国芳の「源平八島大合戦」(1825-1842)。

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<伝義経首洗井戸>
1189年に平泉で自害した義経の首は、腰越で実検された後に捨てられたが、潮で境川を遡り里人に洗い清められたらしい。今の藤沢の白旗にその首洗井戸と首塚がある。

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<白旗神社>
義経を祭神とする神社。義経の首がこの地に辿り着いたと聞いた頼朝から、白旗明神として祀るよう下知があったとされる。境内には義経藤・弁慶松など名付けられた木々が植えられていた。

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<源義経公鎮霊碑>
白旗神社境内にある碑。没後810年の平成11年に、この地の御首と、宮城県栗駒町に葬られた御骸を合祀した。

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<源義経公像武蔵坊弁慶公之像>
白旗神社境内にある銅像。没後830年を記念して令和元年に建てられた。新しいが、なかなか立派。

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<弁慶塚>
白旗神社の南にある弁慶塚。かつては弁慶を祀る八王子権現社があり、北にある義経の白旗神社に向かって建てられていたらしい。

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<源義経像>
伊豆修善寺の山中にある義経像。特に義経との縁はないのだが、頼家と範頼の終焉地のために源氏との縁は深い。

色々な史跡等が残されているのを見て、義経と弁慶の主従が代々慕われてきたのを感じた。いずれ平泉にも行ってみたいものだ。

三浦探訪~衣笠

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最近は三浦半島に興味を持っている。海岸と山々が複雑に入り組み、鎌倉にも近いことから地政学的に重要な土地だったらしい。この半島を治めていたのが三浦一族だった。中でも三浦義明(祖父)、三浦義澄(父)、三浦義村(子)、和田義盛(従兄弟)はNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の中でも活躍していた。桓武平氏の血筋ながら代々源氏に仕え、鎌倉幕府成立に果たした一族の功績も大きい。今回はその三浦一族を訪ねて横須賀市衣笠へと行ってみた。衣笠駅を降りて商店街を歩くと、横断幕や昇り旗があちこちに掛かっていた。それにしても、なんでここは三浦市じゃないのだろう。

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駅近くの衣笠コミュニティセンターには、三浦一族の甲冑がずらりと展示されている。レプリカだが、その数は30領ほどあり圧巻。衣笠桜祭りでは、この甲冑を来て武者行列が行われるらしい。

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満昌寺は1194年に源頼朝が三浦義明の菩提を弔うために建立した。境内には頼朝が手植えたというツツジの木も茂っていた。

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満昌寺の境内の奥には三浦義明廟所がある。この日は宝物館も開館しており、国重文の三浦義明坐像も見ることが出来たが、その渋い顔付きが良かった。

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腹切松公園。衣笠城の落城後、一族を先に逃がした義明は、この松の下で割腹した言われている。享年89歳の壮絶な最期である。

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薬王寺旧跡 三浦義澄公墳墓。鎌倉殿の13人のうちの1人となった義澄だったが、彼が鎌倉幕府の要職に付けたのも義明のお陰だったと言える。

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こちらは三浦義村を祀った近殿神社。山本耕史演じる義村は非常にクセの強いキャラとなっているが、個人的には結構好きだったりする。

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急坂を登り詰めた衣笠城址の手前に立つ大善寺。奈良時代の行基による創建で、後三年の役で一族二代目の三浦為継を守ったという不動明王像が祀られている。

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三浦一族の拠点である衣笠城址。1180年に平家側にいた畠山重忠や河越重頼ら三千騎が攻め寄せたのに対して、ここで義明はわずか百騎余で迎え打った。その頼朝と一族のために老命を投げ打った覚悟が後世に語り継がれた。

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本当はこの後に衣笠山にも登るつもりだったのだが、適当に進んだ山道が全く違う方向へ向かっており、最終的には横須賀しょうぶ園に着いてしまった。ということで衣笠山はいずれ大楠山との縦走で来ることにしよう。

畠山重忠を訪ねて〜神奈川編

先週の「鎌倉殿の13人」では、畠山重忠が遂に北条時政の謀略により殺されてしまった。
自身が潔白であることを示すために、3万の北条勢に対してわずか134騎で立ち向かったという史実は、彼が坂東武者の鑑として永年人気の高い理由の1つである。ドラマでも思っていたよりも重忠の最期ががっつりと描かれていて満足だった。
前回は彼の地元の埼玉を訪ねたが、今回は終焉の地を含め、神奈川県内のゆかりの地を訪ねてみた。

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<鎌倉歴史文化交流館>
まずは鎌倉から。畠山重忠は生前に武蔵御嶽神社に赤鎧を奉納しており、神社の宝物館に収蔵されているが、そのレプリカが鎌倉歴史文化交流館に展示されている。

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<畠山>
葉山町にある205mの低山。1180年まだ平家方だった重忠が三浦氏の衣笠城を攻める際にこの山頂に本陣を張ったことから、姓が山名に残っている。今は眺望はほとんどない。

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<畠山重忠邸跡>
その後に鎌倉御家人となった重忠は、源頼朝の大きな信頼を得る。重忠も公務のために幕府のすぐ側に邸宅を構えた。鶴岡八幡宮の東側に石碑のみ残る。

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<東光禅寺>
横浜市金沢区にある東光禅寺は重忠の開山。ここに重忠の念持仏・位牌・馬具・供養塔がある。御住職のご好意により御本尊にてお参りさせて頂くことができ、念持仏の薬師如来像と位牌を拝見することができた。

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<畠山重保公廟所>
東光禅寺の近くの六郎谷に重忠の子 重保の墓がある。重保は重忠に先立って鎌倉由比ヶ浜で三浦義村に殺されている。

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<畠山重忠公碑>
畠山重忠は1205年6月22日に現在の横浜市二俣川で北条義時軍と戦い最期を遂げた。古戦場跡には畠山重忠終焉の地碑が立っている。

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<首洗い井戸の跡>
少数ながら4時間にも及ぶ激闘の末、最期は愛甲末隆の矢に当たり討死した。切られた重忠の首はかつてここに水が湧き出ていた井戸で洗い清められたとされる。

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<畠山重忠首塚>
重忠の首が祀られた場所、あるいは兜を埋めた場所といわれる。小さな地蔵堂の石造七重塔が立っていた。

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<薬王院・六塚>
3万の北条義時軍と戦って全滅した重忠の一族郎党134騎は、ここにある6つの塚に葬られた。

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<駕籠塚>
重忠の妻「菊の前」は、合戦の知らせを受け駆けつけたが、重忠の戦死を聞き自害した。ここに籠のまま埋葬されたと伝わる。

10月には横浜市立博物館で重忠に関する展示も予定されているらしいので、楽しみにしている。
いつか畠山重忠を主人公にした大河ドラマも制作されないものだろうか。
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