NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には、鎌倉殿に仕えた数多くの御家人が登場していたが、そこで描かれていた以外にも多くの御家人がいた。私の郷土である日野市平山のヒーロー平山季重もそのうちの1人である。
そんな季重に関する資料を展示する「鎌倉殿の平山季重 〜中世日野の武士の様相〜」が日野市郷土資料館にて開催されていた。そこで実家に帰ったついでに、娘と母親を連れて行ってきた。ここは廃校になった小学校の一角を利用した資料館で、一つの教室に平山季重の資料が展示されていた。それらを一通り見て季重について理解を深めることが出来た。
まずこの地域では古代より太陽祭祀を任務としていた日奉氏が勢力を持っていた。そこへ京都の藤原道頼の子・宗頼が加わり、武蔵七党の1つ「西党」となった。宗頼の7代目にあたる季重の父・季綱が平山の地に移り、氏を名乗ることになる。
当時八王子から日野には京都の藤原氏の荘園「船木田荘」が広がっており、平山もこれに属していた。その繋がりから季重は若い頃には京都で御所の警備にあたり「武者所」と名乗ることを認められていたらしい。
やがて京都では政局争いが活発化していく。季重は1156年の保元の乱では源義朝の軍勢に、1159年の平治の乱では源義平の軍勢に加わり戦っていたということが「保元物語」「平治物語」に記されている。しかし源氏方が敗れたことで、季重は武蔵国平山へ戻ったようだ。
その後、源頼朝が旗揚げすると季重はこれに加わった。「吾妻鏡」には季重の金砂城の戦いや宇治川の戦いでの活躍が描かれている。さらに平氏討伐のため自身の一団ともに西国へと向かい、源義経とともに一ノ谷でも戦い功名を挙げたらしい。
この武勲に対して朝廷から義経らとともに任官されている。義経はこのことから頼朝の怒りを買ったわけだが、一方の季重は頼朝の許しを得たようだ。なぜなら頼朝の子・実朝が誕生した時には、鳴弦の役まで務めているからだ。そして実朝と同じく1219年に生涯を閉じた。
ちなみに娘が興味を持ったのは、展示よりも廃校になった小学校の方だった。仕方なく今度は私も娘と一緒に校内外の探検に付き合うのだった。