父が死んで早2年、ずっと後手にしていた相続手続を先日ようやく終えた。面倒なのが父の戸籍だった。出生の戸籍が父の実家の都内下町にはなく、祖父の出身である群馬にあるとのことだった。郵送でも取り寄せられることは知っていたが、せっかくの機会なので、我が家一族のルーツを辿りたいという思いもあり群馬へと行ってみた。
子供の頃に調べて知っていたのは、この苗字の起源は群馬の武士だということだけだった。しかし改めて調べたところ、どうやら元は清和源氏らしいということが分かった。清和源氏は清和天皇に始まり、源頼朝から新田義貞・足利尊氏・徳川家康に至る錚々たる武将が生まれた血筋である。この苗字は鎌倉中期に新田荘内で分家して移った土地の地名から付けたものだった。そして戦国時代には一族から淡路守という一城主まで出ている。しかし同じ県下でも我が一族がこの血筋とは限らない。それを調べるのが今回の旅の目的だった。
まず最初に向かったのは祖父の戸籍のある前橋市役所。ここで可能な限りの戸籍を辿ったところ、江戸時代文政期の曽々々祖父まで行き着いた。ただ前橋の本家とは絶縁のためこれ以上は辿れない。
そこで以前家系図を伊勢原市役所主催の催しで公開されていた同姓の名家がおり、ダメ元で伊勢原市役所に問い合わせをしてみた。するとお宅でその家系図を見せて下さるいうご了承を頂いて下さった。私はてっきり市役所で見せて頂く程度しか想定していなかったので驚いた。頂いた奥様のご連絡先にお電話をし、急いで手土産を用意しお伺いした。
市指定文化財にもなっている立派なご邸宅に着くと、ご高齢のご夫妻が迎え入れて下さった。事情をご説明すると、私のような者は珍しくないらしく、快く巻物の家系図を見せて下さった。そこにはご当家の清和天皇から現代に至る直系家系が細かく記されており、これを元にご主人が一族の歴史を話して下さった。それは鎌倉時代から明治時代までの日本史に密接に関わるもので、他では聞くことの出来ない貴重なものだった。私の前橋の一族はその家系図には載ってはいなかったが、ご主人が仰るにはご当家とうちの一族は淡路守の後に分家しており、間違いなく同族であるということだった。持って行ったうちの家紋との繋がりも知れた。このお話を伺い丁重にお礼を申し上げて、次の目的地へと向かった。
淡路守秀景は戦国時代の倉賀野城の城主である。甲斐国から攻め入った武田信玄と戦った後に降伏し城を任されたが、その後北条氏との戦いで小田原で戦死している。利根川のほとりに城跡碑が立っており、近くの永泉寺には立派な墓もあった。
(一番上の画像は倉賀野城跡地から眺めた利根川)
新田家は上野国新田郡の広い荘園を収めた領主である。徳川家康も新田家の血筋ということで、この地に徳川家発祥地として東照宮を分祀している。新田義貞が鎌倉に攻め込む時に旗揚げしたのがこの地の生品神社であり、立派な銅像や沢山の碑が立っていた。
この旅の最終目的地がここ。新田郡内に我が一族の発祥地があり、今でも地名として残っていた。住宅や工場もあったが、多くはこうした稲田が広がっており、その先には裾野の広い赤城山の山並みが連なっていた。荘園こそが一族の地力を証明するものだったことを考えれば、きっとこの田園風景は約800年前から変わっていないのだろう。と感慨深く眺めていた。
後に法事の際にこの話を一族に話してみたのだが、誰も歴史に興味がないのか、おしなべて反応は薄いものだった。唯一「うちってスゴいの?」と反応してくれたのは娘だけだった。しかし彼女もいずれ結婚すれば姓が変わる可能性が高い。そして一族にも将来的に姓を継いでくれそうな子供は1人もいない。もっとも引き継ぐような土地も財産もないのだから仕方ない。せめて先祖に恥ずかしくないように生きていくことが出来る唯一のことなのだろう。