海外

深田久弥 「雲の上の道」

第1章 出発まで
第2章 カトマンズまで
第3章 ベース・キャンプまで
第4章 ジュガール・ヒマール
第5章 ランタン・ヒマール
第6章 帰途
第7章 後日談

新型コロナウィルスの猛威が収まる気配を見せない。小池都知事の外出自粛要請を受けて、やむなく今週末は祈るような想いで引きこもっている。やることと言えばもっぱら沢山の読み途中になっていた本達の続きを読むことだ。これもその中の1冊。

恐らく現代の日本の山好き達に最も多大な影響を与えた作家と言えば、「日本百名山」を書いた深田久弥だろう。日本中の山々をくまなく登り、登山史とともに格付けをした「日本百名山」は山好き達の教科書となっている。

その深田久弥が1958年にヒマラヤにも登っていたことはあまり知られていない。結局どの山にも登頂できていないことが理由だろう。槙有恒隊がマナスルに初登頂した2年後のことだ。これはその時の紀行文である。

それまで彼は世界中の資料を掻き集めヒマラヤ登山史などの著書を2冊も書いており、ヒマラヤへの憧れは相当なものだった。しかし当時は海外の山へ行くことは容易なことではなかった。彼の登山隊は作家深田・画家山川有一郎・写真家風見武秀・医師古原和美からなり「Artist Alpine Club」と名付けられたが素人部隊に過ぎない。資金も支援もない。まずはその苦労が克明に綴られている。

コンテナ37箱にもなる物質を調達し、大勢の見送りを受けて何とか神戸港から出発する。海路を1ヶ月かけてインドのカルカッタまで、そこから灼熱の陸路を2週間かけてようやくネパールのカトマンズに到着する。そこで待っていた3人の有能なシェルパと80人のポーターと合流した。

目指したのはジュガールヒマールとランタンヒマールだった。8000m峰はないが、未踏峰の7000m峰が多く残るこの地域で、あわよくば初登頂できればという考えだったのだが、あいにく天候や予算等の都合により断念する。

しかしこの紀行文が面白いのは、よくある登頂記録には割愛されている麓の自然や村人達の生活が活き活きと描写しているからである。ヒマラヤの麓に色とりどりの花々や多様な木々が植生していることは知らなかったし、村人達の陽気さや信心深さも興味深かった。

2ヶ月に渡る山行中、深田隊長はいつもしんがりを山川氏と遅れて歩いて見事な山容を眺めたり、部落で一緒に踊ったりと、非常にのんびりした陽気なムードが漂っていた。私もヒマラヤに登頂することは出来ないだろうが、いつかこんなトレッキングに行ってみたいものである。コロナが収束したら。。

『フリーソロ』

Free Solo (fka Solo) [DVD]
National Geographic
2019-03-05






先日の台湾出張の際に飛行機の中で観た映画。一緒に行った同僚は趣味でボルダリングをしているので、彼女と一緒に観てみたのだが、これが凄まじかった。

主人公はアメリカのトップクライマー、アレックス・ホノルド(Alex Honnold, 1985-)。映画の中で彼が最初に登るのはヨセミテ国立公園のハーフドーム。ヨセミテは緑の森とそれを囲む白い断崖絶壁のコントラストが美しい大渓谷で、その奥にハーフドームはある。ほぼ垂直の絶壁をロープもビレイも使わずに登っていくのだが、1つ指先やつま先を滑らせただけで死へと直結する。映し出される絶景はこの上なく美しい。しかしそこで繰り広げられる超人的なクライミングは見ているだけでも恐ろしい。

そして彼が最後に目指すのは同じヨセミテにある聖地エルキャピタン。かつて誰もフリーソロで成功した者がいない975mの絶壁だ。これはアクション映画などではない。死を撮影することになるかもしれないというカメラクルー達の苦悩。彼を応援しきれない恋人の心境。怪我を克服しつつも、そうした周囲のプレッシャーと恐怖に苛まれるアレックスの葛藤。全てがリアルに晒け出されている。2年間かけてルートを確認し、全てのムーブを頭に叩き込み、登り始める。最後の20分間は神懸かり的だった。

本作は本国でアカデミー賞を受賞。日本では9月に公開予定となっている。


台湾出張記

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台湾の台北に出張に行って来た。前回従弟の結婚式で行って以来で4年ぶり。今回は同僚の女性と2人旅。羽田から3時間半で松山空港に到着。短い空旅だったが、エバー航空は食事も出た。

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空港からタクシーで10分ほどで泊まるTai Hope Hotelに到着。ドライバーにはホテルの英語名が通じず、中国語読みも分からないため苦労した。

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ホテルでしばらく仕事をした後で、夜は外に食べに行った。小龍包目的にディンタイフォンに行ってみたが100分待ちで断念。代わりに臨江街夜市に行った。以前行った士林よりは小さいが、色んな屋台は見るだけでも楽しい。

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地元の人しか入らないちょっと怪しげな屋台に入り、試しに臭豆腐を食べてみた。強烈な匂いにも関わらず、意外に美味かった。

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お供は台湾ビール。やっぱり南国のビールは薄めでスッキリした感じ。

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今回の出張の目的は人材の採用。2日目に市内某所で多くの応募者と面接を行い、最終的に3名の方に内定通知書をお渡しした。夜は懇親会で、念願の小龍包を囲んだ。同僚は油っこい中華続きで胃もたれしていたが。

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滞在中に地震はあるわ、台風も来るわで色々大変だったが、大きな収穫のある出張だった。食べる以外に観光の時間は全くなかったが。また来る機会はあるだろう。

植村直己「青春を山に賭けて」



先月の石川直樹さんの写真展を見て、植村直己を思い出した。その冒険の功績はよく似ており、きっと多大な影響を受けたと思われた。そこで未読だった植村直己の著書を読んでみた。

植村直己は1941年兵庫県の生まれ。元々山には興味がなかったが、たまたま入部した明大山岳部でしごかれ、体力と山への意欲を持つようになる。やがて海外の山へ強い憧れを抱くようになり、卒業後から地球を股にかけた冒険が始まる。

彼には金も語学力もなかったが、持ち前のバイタリティと熱意だけがあった。アメリカの農場で不法就労で捕まった際には、山に賭ける熱意が伝わり強制帰国を免れた。フランスのスキー場で職を得た後は、一切の遊びを控え資金を貯めることに専念した。

そんな折、明治大学山岳部のヒマラヤ遠征隊に参加することになる。現地で合流し、アタック隊に選ばれて、ゴジュンバカンの登頂を成功させるが、自分の力ではなかったと喜びもせず、以降単独行にこだわるようになる。

その後の軌跡が凄い。ヨーロッパのモンブラン、アフリカのキリマンジャロ、南米のアコンカグア、ヒマラヤのエベレスト、そして北米のマッキンリー。世界初の五大陸最高峰登頂。しかもエベレスト以外は単独登頂。その途中では60日間かけてアマゾンのイカダ下りまでやっている。

本書にはないが、彼は後年史上初となる犬ゾリによる北極点単独行なども成し遂げる。しかし84年にマッキンリー冬季登頂の直後に音信普通になり、帰らぬ人となった。くしくも登頂日は彼の43歳の誕生日であったが、同時にそれが彼の命日にもなってしまった。今の私と同じ年齢だ。

東京板橋に植村冒険館があることを知り行ってみた。ちょうどメモリアル展をやっていて、マッキンリーに残された日の丸国旗や装備などの遺品が展示されており、彼の偉業と見果てぬ夢に想いを馳せることができた。彼こそは日本が誇る真の探検家だったと痛感した。

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石川直樹 『この星の光の地図を写す』

ishikawa

東京オペラシティで開催されていた石川直樹さんの写真展『この星の光の地図を写す』を観てきた。私は彼のヒマラヤの作品しか見たことがなかったし、以前もNHK日曜美術館の「山岳写真家 田淵行男」にコメンテーターとして出演していたので、当初石川直樹さんは山岳写真家だと思っていた。しかし実際はそれを遥かに超えるスケールの冒険家で、しかもこのオペラシティのある初台の出身であることを知った。

これまでのキャリアを総括する展示内容は、様々な工夫も凝らされ見応えがあった。会場内撮影可だったので、特に印象に残った場面を。

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POLAR
彼は23歳で北極から南極まで自力縦断をしている。厳寒の極地での暖かさの感じる作品が並んでいた。

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New Dimention
世界中の古代壁画も撮り続けていた。壁画だけでなく各地の自然や人々の暮らしも巧みに捉えていた。

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Mt. Fuji
トレーニングのため始めたという富士登山。麓の浅間神社の祭から、空撮の火口までが富士の形に並べられていた

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K2
20歳でアラスカのデナリに登頂し、23歳で世界七大陸最高峰を最年少で踏破。ここでは2015年にK2に挑戦した時の作品が並んでいるハイライト。テントの中では映像も見ることが出来た。

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石川直樹の部屋
彼のテント、ザック、登山靴などの装備一式や、旅先のグッズなどがずらりと展示。愛読書を陳列した本棚もあり興味深かった。

実は石川直樹さんの著書「極北へ」は、毎日新聞の読書感想画コンクール(中学校・高等学校の部)の指定図書にもなっていた。今度著書も読んでみようと思う。

「アルプス登攀記」

アルプス登攀記〈上〉 (岩波文庫)
エドワード ウィンパー
岩波書店
1966-01


〈1860年〉
第1章 はじめに
〈1861年〉
第2章 モン・ペルヴーの登攀
第3章 マッターホルンへの第1回の登攀
(1862年)
第4章 マッターホルン、再度の試み
(1863年)
第5章 トゥールナンシュの谷――ブルイユから直接ツェルマットに抜ける峠(ブルイユヨッホ)――ツェルマット――グラン・トゥールナランの初登攀
第6章 マッターホルン登攀、第6回の試み
〈1864年〉
第7章 モン・スニー街道のサン・ミッシェルからコル・デ・ゼギーユ・ダルヴ、コル・ド・マルティニャール、ブレーシュ・ド・ラ・メイジュを越えてラ・ベラルドまで
第8章 エクランの初登頂
第9章 コル・ド・ラ・ピラットの初通過
第10章 モン・ブラン山群にて――コル・ド・トリオレ越えとモン・ドラン、エギーユ・ド・トレラテート、エギーユ・ダルジャンティエールの初登攀
第11章 モンマング峠の初通過――ツェルマット
〈1865年〉
第12章 グラン・コルニエの初登頂
第13章 ダン・ブランシュの登攀
第14章 コル・デランで道に迷う――マッターホルン登攀、7回目の試み
第15章 アオスタの谷、グランド・ジョラスの登攀
第16章 コル・ドランの初通過
第17章 エギーユ・ヴェルトの登攀
第18章 コル・ド・タレーフルの初通過
第19章 リュイネットの初登攀――マッターホルン
第20章 マッターホルンの初登攀
第21章 マッターホルンの下山
付録 マッターホルン後日物語
 

読書の秋ということで一冊。

ヨーロッパアルプスのマッターホルンは、美しい一方でその鋭い山容から最後まで登頂不可能とされてきた。1865年にそのマッターホルンの初登頂に成功したのがウィンパーであった。これは1860年から5年間にわたる彼の登山記である。

イギリス人であるエドワード・ウィンパー(Edward Whymper, 1840-1911)は元々画家であり、アルプスへは挿絵画の仕事を依頼されたから行ったのだった。しかしアルプスに魅了された彼は登山家としての人生を歩み始めることになる。

その登山は挑戦の連続であった。山案内を伴いながら数々の未踏峰に果敢に目指していくのだが、氷河の亀裂、雪崩や落石、猛吹雪などによって幾度となく危険に晒される。それでも彼は諦めることなく、氷河や雪斜面や岩層の構造、気象条件などを緻密に分析し、ルートや装備などを見直しながら、エクランやグランド・ジョラスなどの頂を次々と踏破していく。その様子は痛快だ。

アルプス登山黄金期の中心人物も一通り登場する。ウィンパーのライバルJ.A.カレル、山案内ミッシェル・クロー、せむしの人夫ルク・メイネ、ジョン・チンダル教授、etc。こうしたアルプスの猛者達がウィンパーの山行に密接に関わってくる。

これが単なる紀行文とは異なっているのはウィンパーの持つ視点の広さや博学による。文中における景観美の論じ方は画家としての視点であるし、氷河地形や鉄道が出来上がる様子などは技術者としてのそれである。ある村に蔓延する白痴病の根絶方法にも触れている。

マッターホルンには計8回挑戦している。当初は南西山稜から挑んでいたが、一度は数百フィートも崖を滑落し大怪我を負っている。最終的に岩層の構造を分析し、東壁にルートを変更する。一緒に組もうと思っていたカレルに出し抜かれたことを知り、急いでクローらと7人で隊を組んで山頂を目指す。そして南西から登っていたカレル隊よりも先に、東壁から見事初登頂を果たす。しかし下山中に他の山案内が使用していた通常よりも細いロープが切れたせいで、クローら4人が滑落して命を落とすのだった。

この悲劇によってウィンパーの栄冠には傷がついてしまった感はある。しかしこれを読めば彼が常に試行錯誤を繰り返しながら決して諦めずに挑み続け、その必然の結果としてマッターホルン初登頂を遂げたことが分かるだろう。

1840-1911_Edward_Whymper_(England)
随所に挿入されている彼の見事な挿絵も見所だ。

台湾旅遊記

先日台湾へ行って来た。アメリカに住む従弟が台湾出身の女性と結婚し、その挙式を台湾で行うことになったためだ。

台北松山空港に降り立った瞬間、とにかく暑い。気温は40度、湿気は90%。沖縄与那国島と同緯度ということで、完全に南国の気候だ。中国語圏の国としては、以前中国の上海に行ったことがあるが、その時は色々カルチャーショックを受けた。それと比べると、台湾はちょうど日本と中国の中間のような印象だ。

<タクシー>
街中の移動には基本的にタクシーを使ったが安い。日本の1/3位の料金。皆同じ色の黄色いタクシーだが、数が多いからすぐ見つかるし、ぼったくられるようなことも全くなかった。そうしたところは中国よりも安心できたが、運転の荒さは同じ。また運転中も大音量でラジオを聴いてたり、ナビでテレビ観てたりと、冷や冷やものだった。
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<コンビニ>
台湾は華僑圏の中でも特に親日の国である。街中にはセブンイレブンとローソンが至るところにあり、中に入ると、暑いにも関わらずおでんがあるのを始め、菓子やコスメなど様々な日本製品が並んでいた。日常生活の中にこれだけ日本を目にしていれば、そりゃ親日にもなるだろうと納得した。

<台北101>
旅行に行くとそこの一番高い建物に登るのが好き。台北101は高さ509m。あのドバイのブルジュ・ハリファに抜かれるまでは世界一高いビルだった。展望階に着くと景色は見事だが、とにかく中国人団体のうるさいこと。お揃いのオレンジのTシャツを着た中年団体が、ベンチを陣取り大騒ぎしていて、うんざりしてしまった。
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<忠烈祠>
国民革命と抗日戦争で戦没した英霊を祀る祠。酷暑の中、門に立っている衛兵は微動だにせず、時間になって交代する時の行進も見事だが、見てるこっちが汗だくに。
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<夜市>
台北には夜市と言われる屋台街があちこちあるが、特に有名なのが士林だ。電車を乗り継いでいくと、観光客以外にも現地の若い子達が沢山いた。食べ物から小物やファッションまでとにかく無数の屋台が立ち並び、臭豆腐の臭い匂いが漂う。地下の屋台で麺類とカニの揚げたものを食べた。衛生面が少し心配だったが幸い何も問題なかった。
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<料理>
連日出てくる台湾料理の数々は、美味しいのだが、量の多さとこってり感で、妻は胃を痛めていた。そうした中で私が一番良かったのが、フラッと立ち寄った近くの火鍋屋。南国で鍋かとも思ったが。。。要はしゃぶしゃぶに近いのだが、肉以外の色んな食材は見たことないものばかり。中国語の説明もよく分からないまま、甘辛いタレに付けて食べたら予想以上に美味かった。
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<結婚式>
挙式は市内の有名な圓山大飯店(グランドホテル)で行われた。昔から各国要人の招待に使われた由緒正しいホテルで、地下には要人脱出用の秘密通路まであった。
まず前日に親族だけで式が行われた。台湾の祝いの色は赤。花嫁を始め女性は皆赤いチャイナドレスや洋服を着る。そして赤い祝儀袋を渡し、花嫁から注がれたお茶を呑む。色々独特なしきたりがあった。
翌日は数百人という大人数が集まって披露宴。歌好きの花嫁の親父さんに誘われて私も一緒に舞台に上がり長渕剛の"乾杯"を歌うハメに。娘も初めてドレスを着て参加し、当日急遽やることになったフラワーガールを無事務めることができた。
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やっぱり海外旅行は仕事じゃなくてプライベートで行くのがいい。

上海出張記 (後編)

上海出張は2泊3日の日程だった。基本的に3日間に目一杯アポを入れていたのだが、当日になって先方の都合で時間が空いたりもした。なので、その空いた時間に少しだけ観光もすることができた。

<浦東>
まず行ったのは浦東。最近発展したアップタウン。見物は超高層ビル群だ。以前はここの421mのジンマオタワーが中国一高いビルだったが、今はその隣に2008年に完成した上海環球金融中心(ワールドフィナンシャルセンター)が492mと一番高い。ちなみに世界一高いビルはドバイにあるブルジュハリーファで828m。金融中心は現在世界で3番目に高いビルであるが、展望台の高さとしては世界一らしい。それならということで登ってみたが、まぁ本当に高いこと。スカイツリーもそうだったが、ここまで高いと現実感がないため怖さも感じない。その高さから見た上海の街はさすがにスモッグ?でくすんでいた。
また横を見ると、今度はさらにもう1つの超高層ビルが建設されていた。632mの上海センタービルで来年完成予定だという。そうなるともうこの環球金融中心には観光客は来ることはなくなるのだろう。この終わらない高さ競争には思わず笑ってしまった。




<豫園>
16世紀の明代に建設された庭園と商業市場で、古い中国の姿を残す上海の少ない観光地の1つ。あまり時間がなかったので、全然ゆっくり見られなかったが、目当ては花文字と指掌画。以前知人に見せてもらったのだが素晴らしかったため、今回土産に是非持って帰りたかった。露店を見つけ料金交渉し100元にまけてもらいお願いする。目の前で書いてくれるのだが、どちらも完成までわずか3分ほど。見事な絵柄を筆や指で瞬く間に描き上げていく様子を見ながら、やはり中国人は高い技術力を持っているということに感嘆した。かつてはその労働力も安かったため日本企業も押し寄せたわけだが、今は賃金も上がり、チャイナリスクも高まったために、日本企業は東南アジアへとシフトを始めたわけだ。そんなことを考えながら筆・指さばきを見ていた。




<南京路>
様々な百貨店やブランドショップが立ち並ぶ中心街の歩行者天国。東京で言えば銀座あたりか。昼夜問わず人通りが多く、その間を縫うように観光客を乗せたトロッコ列車のようなものが何度も行き来をしている。夜はネオンやライトアップで不夜城の様相を呈している。通りのあちこちで人だかりができていたので期待して覗いてみたが、何のことはない、ただカラオケの音楽をバックにそんな大して上手くもない人が1人マイクで歌っているだけなのだ。また別なところでは、数十人ほどのおばさん集団が列に並んで大音量の音楽に合わせて盆踊りのような躍りを踊っていた。そんな集団があちこちで同じようなことをしている。はっきり言ってこの人達はよく恥ずかしくないものだなと感心してしまった。しかし見方を変えれば、年や人目も気にせずに自分のやりたいように楽しむことができる文化というのは、それはそれで羨ましいことなのかもしれない。




<食事>
過去に色々食品偽装があったため、基本的に中国産の食品には不安があった。うちの嫁も中国産の食品は絶対に買わない。しかし滞在中は食べざる得ない。さすがに露店には手を出さなかったが、レストランなど食べた小籠包や上海料理は普通に美味しかった。値段も日本に比べればかなり安い。しかしあまり油っこいものばかり食べ過ぎたせいで、後で胃がもたれてしまったが。




<対日感情>
行く前に懸念していたものの1つがこれだった。日本人ということが分かれば敵意を向けられる恐れがあるのではないだろうかと。昨年あれだけの反日デモの様子を見せられたら不安にもなる。しかし実際はそれも全く杞憂だった。日本と経済的に結び付きの強い上海の土地柄もあるのだろう。店先でも日本人と分かると日本語で話し掛けてくる人も多かった。
2泊目の晩にはある現地の人に夕食に誘われた。昨年末にうちのサービスを提供したことのある、日系企業の中国人営業部長さん達だった。ホテルの高そうな中華レストランでご馳走になった。その時に色々日中関係について意見を聞かせてもらったのだが、悪影響となるだけの島などいらないという意見だった。実利が絡む立場の人ではあるが、現地でこういう意見を聞けたのは貴重だった。


<総括>
3日間の滞在を通じての印象。地域差というものも大きいだろうが、上海を見る限りはインフラは完全に先進国のそれである。一方でその内実はまだまだ発展途上国だという印象だ。私はこれまで発展途上国に行った経験がなかったのだが、今回見てみてそこには良い意味での活気と貪欲さがあり、それらをもってこの国をまだ伸びていくだろうと実感させられた。そこは日本も見習わなければいけないところかもしれない。


上海出張記 (前編)

先日中国の上海へ出張に行ってきた。昨年立ち上げた中国プロジェクトの営業だ。昨年採用した中国語の堪能な部下と2人で行ったのだが、私は初中国で中国語も話せない。はっきり言って行く前は全くモチベーションが上がらなかった。報道で流れていたPM2.5をはじめ、中国に対してマイナスな内容の話ばかり聞いていた。そんな中、実際に行ってきて見たこと感じたことをまとめてみた。

<到着>
上海の空港や市内に着いてまず感じたのは、欧米人の多さ。ビジネスマンや旅行客などかなりの数の白人が訪れており、北欧の団体客もいた。中国が今世界中で注目されていて、シフトが日本から移行していることを実感した。



<PM 2.5>
一番懸念されたのが、PM2.5。北京の人からしばらく青空を見たことがないと聞いていた。そして上海の数値はその北京よりも高かった。そのため私はネットで話題のN95マスクを購入した。医療系の人も使うような本格的なマスクで、20枚入で4000円もした。しかし実際来てみると、上海の上空には青空が広がっていた。多少スモッグはあるのかもしれないがほとんど感じず、マスク着用している人も全くいない。聞くとここ最近ようやく回復したらしい。結局マスクは全然使わず、安心した反面ちょっともったいなかった。



<道路交通>
とにかく道路交通状況はメチャクチャだ。市内を走るすべての車は、皆車線変更の際にウインカーを一切出さない。またヘルメットもかぶらない無数のスクーターたちが道路を逆走しながら、縦横無尽に走っている。これは違法なのだが、恐らく未だにスクーターは自転車と同じ感覚なのだろうと思われる。さらに歩行者は信号など一切無視して道路を横断してくる。なので、いつどこから何が飛び出してくるかが全く予想がつかないのだ。警察もそうしたものを取り締まることもない。そのため車は皆、何かが飛び出してくる度にクラクションを鳴らしまくる。そんな状況なので、街中は常にクラクションの嵐となっている。昔は自転車が主な交通手段だったのが、15年ほど前から生活レベルの向上に伴い、皆車を所有するようになった。しかしそこにモラルというものが伴わなかったため、今のような現状になってしまったと思われる。

<タクシー>
市内の移動は主にタクシーを使った。そのほとんどはフォルクスワーゲンの旧式セダン。値段は30分乗っても数百円程度と安い。しかしわざと遠回りして高く請求してくるタクシーも多く、信頼できるタクシーの見極め方も教えてもらった。そしてとにかく運転が荒い。先に述べたようにクラクションは常に鳴らしまくり。急ブレーキ、急ハンドルも常。ひきそうになった歩行者とはお互い大声で大喧嘩。こっちは常にヒヤヒヤで乗っているわけで精神的にヘトヘト。上海在住が長かった部下ですら車酔いして吐いていたくらいだ。日本のタクシーでは考えられない。



<車>
中国の道路は右側通行のため、車は左ハンドル。そのせいだろうか、とにかく西洋車の多いこと。一番目にするのはやはりタクシーでも使われているフォルクスワーゲンのVW。また上海市内は高級車ばかり走っており、黒塗りのベンツやアウディ、アメ車が溢れていた。バブルで儲けた人がいかに多いかを物語っている。日本車は予想以上に少なかった。ちなみに中国にも自動車メーカーがあるらしいが、目にすることはなかった。


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