海外

オンラインツアー③ - アイルランド編

今日3月17日はセント・パトリック・デイ。アイルランドにキリスト教をもたらした聖人パトリックの命日であり、世界中のアイルランド人が祝うカトリックの祭典である。
これまでオンラインツアーを、1回目はアメリカのシアトル、2回目はスイスへと行って来たが、3回目となる今回はこれにちなみアイルランドへ行ってみたいと思う。

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<Day 1>
① ダブリン城
ロンドン経由でダブリン空港に到着し、まず最初に向かうのはここ。1204年にジョン王によって建てられたイギリス支配の象徴だが、ダブリンのシンボルでもある。

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② 聖パトリック大聖堂
アイルランドにキリスト教を布教した聖パトリックにちなむ最大の教会。記念日の由来にもなった聖人の歴史ある荘厳な大聖堂。

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③ アイルランド国立考古学・歴史博物館
紀元前2000年から現在に至るまでのアイルランドの至宝の数々が展示される。ケルト文化やヴァイキング時代など永い歴史を学べる。

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④ ギネス・ストアハウス
私が愛する黒ビールの殿堂ギネスビールの醸造所とミュージアム。ギネスの歴史や製造過程を知ることができ、最後に試飲もできる。

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⑤ テンプル・バー
アイリッシュパブや伝統料理屋が立ち並ぶ中心街。夜は老舗パブでビールを呑みながら、アイルランド伝統音楽の演奏に浸りたい。



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<Day 2>
① アイリッシュ・ロック博物館
2日目はアイルランドの英雄シン・リジーのフィル・ライノットを辿る日にしたい。まずはテンプル・バーにあるロック博物館。シン・リジーのみならず、ヴァン・モリソンやU2などレジェンドの業績を讃える。

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② フィル・ライノット像
ダブリン市内にあるフィルの銅像。ベースと共に立つ彼の凛々しい姿に会いに行き写真に収めたい。

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③ Phil Lynott Blue Plaque
かつてフィルが住んでいた郊外にある家に記念碑が飾られている。ただ今は全く関係ない他人の家。。

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④ セント・フィンタンズ墓地
ダブリンからレンタカーで湾岸沿いを1時間程度で走ったホウス半島の墓地にフィルが眠っている。是非訪れて花でも手向けたい。

と、こんな感じで今回はアイルランドのダブリンとフィルを訪ねる旅をした。時間があれば、北アイルランドのジャイアンツコーズウェイなどにも行ってみたいが遠いな。

フィリピン出張記

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先週は仕事で営業のためにフィリピンへ出張に行ってきた。男性の同僚と4泊5日の日程。東南アジアもフィリピンも行くのは今回初めて。ドゥテルテ前大統領の頃は、警察が麻薬売人を射殺しまくっていたらしいので治安に不安もあったが、とりあえず問題なく帰って来た。

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成田からマニラへと飛ぶ。最近は座席のモニターで位置確認が出来るのだが、到着直前に管制官からの指示なのか、えらい遠回りをしていた。奥に見えるのは大噴火で有名なピナツボ火山。

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5時間かかって夜22時にマニラ空港に到着。フィリピンは16世紀のマゼラン来島以来の敬虔なキリスト教国。空港内にも立派なキリスト像があった。

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Grabタクシーに乗って深夜にマニラ中心部のマカティ・ダイヤモンド・レジデンスに到着。クイーンベッドのツインルームで、キッチンも付いた豪華なホテルで、スタッフも終始笑顔で対応が良かった。

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翌朝12階のホテルの部屋から見た夜明け。この日から3日間営業回り。 11月と言えども南国なので連日30度超えの真夏日。日本との気温差が激しい。

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初日は市内をひたすら徒歩で回った。横断歩道の信号は数秒で点滅し出すので、皆赤のうちから渡り出す。交通量は多く日本車多し。とある一角は電線が凄いことになっていた。

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2日目からは電車移動。市内はホテルやモールもそうだったが、電車の駅にも荷物検査が必ずあり、治安の悪さとセキュリティの徹底を実感させられた。

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市内でよく見かけたのは、このジプニーという乗り物。乗り合いの巨大なタクシーのようなもので、ベンツのレトロな車体がカッコ良いのだが、ちょっと乗る勇気がなかった。

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1-2日目の営業先はどこもアップタウンだったが、3日目はダウンタウンだった。臭くて汚い街中は危険な雰囲気に満ち、学校も行けない貧しい子供が裸で道端に寝そべっていた。

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最終日の午後に少しだけ時間が空いたので、ホテルの近くにあったAyala Museumに寄ってみた。色々な展示があったが、中でもフィリピンの歴史を紹介する80ものジオラマからは、この国が中国・スペイン・アメリカ・日本など様々な他国から侵略・統治された複雑な歴史を概観する事が出来た。↑は1521年にスペインから来たマゼランが現地の英雄ラプラプに殺されるシーン。


この国はスペイン語の名残のあるタガログ語が母国語だが、アメリカ統治もあり英語もほぼ母国語で助かる。肝心の営業もあちこちで良い話が出来て成功裡に終わった。元々付き合いのあるエージェントばかりだったが、初めての訪問に歓待を受け、コロナ以降で顧客も戻っていることが実感出来た。
今回はフィリピンという国の良い面と悪い面の両方を垣間見たが、少なくともこうした発展途上国の勢いは、陽の沈む国 日本ではもう見られないものだろう。

「マナスル登頂記」 槇有恒

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もう7年前になるが、購読している毎日新聞の誌面に「マナスル登頂60周年」というような文字が踊っていた。当時の登山隊を後援していたのが毎日新聞だったというのもあるのだろう。

マナスルは8,125mで世界第8位のヒマラヤの高峰で、1956年に日本が初登頂をしている。その登山隊の隊長が槇有恒(1894-1989)。若い頃にはアイガー東山陵初登攀の達成も果たした著名な登山家である。彼のマナスル登頂に関する著書を探していたのだが、ようやく見つけた。

第一次登山隊は悪天候と準備不足のため途中撤退。第二次登山隊は麓のサマ村民の反対により、あえなく断念していた。槇隊長の登山隊は満を持しての第三次となる。

隊員は12名、シェルパは20名、ポーターが400名。3月11日にカトマンズからマナスルの麓までの200kmの行程を大行列になって徒歩で行軍する。各地でテント露営しながら険しい崖や危険な吊り橋など悪路を進むが、誰1人怪我をさせなかったらしい。

通り抜ける村々は、標高が上がるにつれてネパール文化圏からチベット文化圏に入る。そして最後のサマ村に着く。マナスルを聖なる山とするサマでは、第一次登山隊が村に厄災をもたらしたとして、日本の登山に反対していた。第三次登山の前に話をつけていたはずが、またしても妨害に遭う。最終的に村が要求する金を支払うことで通過が許可される。

3月30日、ようやく到着したベースキャンプ(3,850m)から荷上げを開始する。クレバスやアイスフォールの危険なマナスル氷河を越え、第1キャンプ(5,250m)、第2キャンプ(5,600m)と登っていく。62歳と高齢の槙隊長は体力や体調のせいで遅れがちだが、毎日的確な指示を出す。C3(6,200m)、C4(6,550m)と標高が上がるにつれ空気も薄くなり、高山病や肺炎に罹る者も出てくる。C4とC5(7,200m)の間では雪崩も発生するが、幸い全員無事だった。

そして5月9日快晴、第1アタック隊の今西隊員とシェルパのガルツェンがC6(7,800m)から酸素補給器を背負って山頂へ向かう。無線は繋がらなかったが、見えない山頂部から降りてきた彼らの万歳する姿を確認し、槙隊長は目頭を熱くしたという。挿入された今西隊員の手記がまた良かった。

このマナスル初登頂のニュースには日本中が沸いた。戦後意気消沈していた日本がようやく先進国と肩を並べることが出来たのだ。しかし槙隊長は「マナスルを征服したとは思わない。私にとって自然は尊いもの」と謙虚だった。

4年前には在住だった茅ヶ崎で回顧展を開催していたので見に行ったこともある。半世紀自宅の倉庫に眠っていた装備品などが展示されていて身近に感じられた。

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オンラインツアー② - スイス編

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今年の春は仕事が多忙を極めた。昨秋の水際対策撤廃により訪日外国人客は急増し、今春にピークに達した。一方で私の部署の人員は、コロナ禍中に辞めたり異動したりで、残ったのは実質私1人だけ。本当にカオスだった。

ともあれこうして海外旅行が復活した。私もこのGWに海外に旅立ってみたかったが、実際は難しい。という訳で、またオンラインツアーをしてみたいと思う。昨年はGoogleのストリートビューでシアトルへ行ってみた。行ってみたい国は他にも沢山あるのだが、その中でも特に行きたいのはスイスである。ということでオンラインツアーの第2弾はスイス。

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<Day 1>
① Geneve ジュネーブ
飛行機でジュネーブ国際空港に到着する。直行便はないため乗り継ぎで丸一日を要する。ジュネーブはフランスとの国境に位置し、国連ヨーロッパ本部もある国際都市だが、先を急ぐので素通りするかもしれない。

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② Vevey ヴヴェイ
ジュネーブからレマン湖沿いに電車で1時間揺られ、降り立つのはヴヴェイという町。ここは私が敬愛する喜劇王チャールズ・チャップリンが晩年を過ごした地である。湖畔には銅像が立つ他、郊外の邸宅はChaplin's Worldというミュージアムになっている。

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③ Montreux モントルー
ヴヴェイの隣街がモントルー。ここはクイーンのフレディ・マーキュリーのゆかりの地である。有名な湖畔の銅像と、スタジオを改修したQueen The Stadio Experienceというミュージアムがある。出来れば湖畔に建つシオン城の写真も撮っておきたい。

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④ Gruyeres グリュイエール
レマン湖から少し離れるのだが、時間があれば訪れたいのがこの町。ここには「エイリアン」で知られるH.R.ギーガーの博物館がある。名高い古城グリュイエール城も見られれば。



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<Day 2>
● Zermatt ツェルマット
今回の私のスイス旅行の最大の目的地がツェルマットである。モントルーから電車で2時間半、標高1605mの山間の小さな村。ここにスイスの名峰マッターホルンが聳えている。

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① Matterhorn Museum
まずはマッターホルン博物館に立ち寄り、その歴史を学びたい。アルプス誕生や、1865年のウィンパー初登頂時の村の様子などを知ることが出来る。

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② Schwarzsee シュヴァルツゼー
ツェルマットからロープウェイに乗って降り立つのがシュヴァルツゼー、標高2,583m。いよいよここからマッターホルンへの登山を開始する。

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③ Hornliuhtte ヘルンリ小屋
山頂(4478m)までの登頂はクライミング技術を要する上級コースだが、3260mのヘルンリ小屋までならそれほど難しくない。途中岩場や急登を経て約1.5時間で到着。是非ここで一泊し夕朝焼けを眺めたい。



今回はスイス西部のみを回ったが、時間があればユングフラウやアイガーのある中部や、ハイジのいた東部にも足を伸ばしたい。

オンラインツアー① ~シアトル編

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もしコロナがなかったら、昨年か今年の夏休みには娘を連れてアメリカに行っていたはずだった。シアトルに叔母や従弟らが住んでおり、以前から来てくれと言われていたからだった。

このコロナ禍で世界的に旅行業や航空産業は壊滅的なダメージを受けた。日本ではようやく6月から外国人旅行者の受け入れが再開したが、多くの規制が障害となり、私の仕事も復活にはほど遠い状況である。

世界的なパンデミック中に旅行業界はオンラインツアーという苦肉の策を考えた。ネット上でガイドが各地を案内するというものだが、結局大した売り上げには繋がらなかった。ただ少しでも旅行に行った気分になれるものではあるので、今回私も試しにシアトルへオンライン旅をしてみようと思う。

<Day 1>
シアトルはアメリカ西海岸の一番北にあるワシントン州の州都で、夏でも涼しく過ごしやすいと言われている。ボーイングやマイクロソフト、アマゾンといった世界的大企業の本社があり、スターバックスの発祥地でもある。しかし私の旅の目的はこれ。

コロンビアセンター
① Columbia Center
馬鹿と雲は高い所が好き。ということで、私は旅先ではまず一番高い建物に登ることにしている。287mのコロンビアセンターはワシントン州でも一番高いビルで、シアトルの街並みだけでなく、晴れていればマウントレーニアも見えるはず。

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② Kurt Cobain's House
90年代グランジの象徴カート・コバーンが住んでいた家がシアトルにある。敷地内には入れないが、隣のビレッタ・パークには彼がいつも座っていたベンチがあり、ファンが絶えないらしい。

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③ Jimi Hendrix Statue
60年代ロックのレジェンド、ジミ・ヘンドリックスもシアトル出身。ストリートビューでは見辛いが、街中にあるこの銅像が有名。他にもシアトルには彼の公園や墓などもあり、時間があれば行ってみたい。

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④ Museum of Pop Culture
この奇抜な建物はマイクロソフト創業者に建てられた。ジミヘンやカートを始めとするロックやポップカルチャーの博物館。多分ここで半日くらい費やしそうだ。ちなみにシアトルのシンボルでもあるスペースニードルというタワーはこのすぐ隣。

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⑤ The Crocodile
シアトルは90年代初頭に一世風靡したグランジの発祥地であり、NirvanaやSoundgardenらはここで演奏していた。出来れば夜に行ってローカルバンドの演奏を愉しみながらビールでも飲みたい。



<Day 2>
初日のテーマは音楽だったが、2日目のテーマは山である。ということで早朝からレンタカーを2時間半ほど飛ばして向かうのは、レーニア山国立公園である。レーニア山はかつて日本人移民にタコマ富士と呼ばれ親しまれた。標高は4,392mで、夏でも山頂は雪に覆われている。

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① Reflection Lake
まず立ち寄るのは、山中腹にあるこのリフレクション・レイク。名前の通り湖面に映るレーニアの山容を撮影したい。

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② Henry M Jackson Visitor Center
そして車は標高1,647mのパラダイスにあるジャクソンビジターセンターに駐車する。ここで情報取集をしてからトレイルを歩き始めよう。

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③ Panorama Point
パラダイスからスカイライン・トレイルを歩くこと約3時間で、標高2,074mのパノラマポイントに到着する。本当は山頂を目指したいが、この先は氷河登山と高度順応必須の上級者向けとなる。いずれ。



と、今回はこんな行程を組んでみたが、多分これでは娘はついて来ないだろうなぁ。
ちなみに叔母の話では、2020年の黒人差別に対するブラック・ライブズ・マター暴動の際には、シアトルではデモ隊が街の一角を数か月も占拠していたらしい。またトランプが返り咲きそうな気配もあるので、バイデン在任中に行きたいものだな。

「マゼラン 最初の世界一周航海」

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ピガフェッタ『最初の世界周航』
1. 香料諸島遠征の準備
2. サンルカル出帆
3. ブラジル到着
4. 巨人の国
5. 海峡の発見
6. 太平洋を行く
7. 泥棒の島々
8. フィリピン諸島倒着
9. セブ王との交歓
10.マゼランの死
11.ブルネ訪問
12.ティドーレ入港
13.ビクトリア号の出帆
14.東インドの国々
15.喜望峰からヴェルデ岬諸島まで
16.世界周航の完成
トランシルヴァーノ『モルッカ諸島遠征調書』

これまで多くの近現代の冒険譚を読んできたが、まだ世界が謎に包まれていた中世の紀行文を見つけた。初めて世界一周航海し生きて帰国したマゼラン船隊の生き残り船員の実録となれば、つまらないはずがないだろう。

大航海時代にはポルトガルとスペインの2大国が香辛料を求めて海外遠征を競い合っていた。大西洋から東はポルトガル、西はスペインという取り決めの元で、1492年にスペインのコロンブスがアメリカ大陸を発見し、1498年にポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ喜望峰を経てインドに到達していた。

マゼランは本名をフェルナンド・マガリャネスという。ポルトガル人として航海経験を積み、香辛料産地のマラッカ(インドネシア)も巡ったが、自身の報酬の少なさに不満を抱き、敵国のスペインへと移った。そしてスペイン皇帝の承認を得て西周りでマラッカに到達するべく1519年8月に5隻のスペイン艦隊を率いて出帆した。

しかしこの航海は苦難の連続だった。南米海岸沿いに南下を続けるが、極寒と暴風と食料不足で船員の士気は低下し、餓死者も出てくる。やがてスペイン人の船員たちはポルトガル人であるマゼランに対して不信を抱き、1隻が母国へ逃走してしまう。

運良く海峡を発見し大陸を通過したが、その後は延々と続く太平洋。出帆から1年半後にようやくフィリピン諸島に到着した。セブ島の王の歓迎を受けたものの、他島との無謀な戦いでマゼランは戦死。船隊の通訳だったマゼランの奴隷に裏切られて王達の奇襲に合い、残った船員達は命からがら島を逃げ出す。

本書では訪問する世界各地の民族文化や各島の王と交換した贈答品についても詳述している。言葉も文化も全く異なる訪問者を歓迎するのみならず、キリスト教に改宗までする王がいたのは驚いた。鎖国日本とはえらい違いだ。

最終的に彼らはマラッカに到達し、香辛料を残った1隻に積めるだけ積み込み、1522年9月に帰国するのだが、たかだか香辛料のためにここまで命を賭けるというのが正直私にはピンと来なかった。ただその香辛料のお陰で地球が丸いのだということが実証されたというのが面白い。

星野道夫「旅をする木」

ダウンロード

白夜
早春
ルース氷河
もうひとつの時間
トーテムポールを捜して
アラスカとの出合い
リツヤベイ
キスカ
ブッシュ・パイロットの死
旅をする木、他

アラスカに生涯を捧げた写真家 星野道夫。その名前は前から知っていた。現在カナダで活躍されている写真家の大竹英洋さんが、昨年末にヤマケイが開催したオンライントークイベントで、影響を受けた本として本書を紹介していた。なので早速読んでみた。

星野さんはアラスカに憧れ19歳の時にエスキモーの村長に手紙を書いた。半年後に返事が届き、夏の3ヶ月を村長家で過ごす。そして1978年に移住しアラスカ大学の野生動物学科で学ぶかたわら、アラスカ各地の大自然に飛び込んで行った。ブルックス山脈の未踏の山谷を歩き、北極海の湾岸で舟を漕ぐ。アラスカに住んで18年、写真家として旅を続ける彼の日々が綴られていた。

彼が追い続けたのは野生動物たちだった。ツンドラで季節移動を続けるカリブーの群れ。南東アラスカの海面から飛び上がるザトウクジラ。たった一匹でマッキンレーを越えるオオカミ。大自然の動物たちの躍動感な姿が描かれていた。

登場するのは動物だけではない。彼がアラスカへと渡るきっかけとなった写真家ジョージ・モーブリィ。アラスカ核爆破計画を阻止した動物学者ビル・プルーイット。アサバスカンインディアンの曹長。クジラ漁を続けるエスキモー。墜死したブッシュパイロット。これはアラスカの大地を愛した人々の物語でもあった。

そして、ちょうどこの本を読んだタイミングで、彼の回顧写真展「悠久の時を旅する」が横浜あーすぷらざに巡廻してきたので娘と観に行った。会場内には圧倒的なスケールのアラスカの大自然と、そこに生き生きと息づく野生動物、そして自然や動物たち共生する人々を捉えた大きなパネル写真がずらりと並んでいた。さらには、旅の始まりとなった村長との手紙、愛読書やカメラなどの遺品まで展示されており、彼の生涯を一望できる素晴らしい内容だった。

1996年に彼はカムチャッカでヒグマに襲われてこの世を去るのだが、まだ新しいテーマを追い求めており志半ばだった。それでも彼が生前に残した多くの作品から、私達は学ぶべきことが沢山あると思う。

悠久メイン

「ザ・プッシュ」 トミー・コールドウェル

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数年前に観た映画「フリーソロ」は、若き天才米国人クライマーのアレックス・オノルド(Alex Honold, 1985-)を追った衝撃的なドキュメンタリーだった。そこに先輩クライマーとして登場していたのがトミー・コールドウェル(Tommy Caldwell, 1978-)なのだが、彼の伝記が出版されていたのを知り読んでみた。これもまた鮮烈な内容だった。

幼少の彼は内向的だったが、ボディビルダーの父にロッククライミングを教わってからは、親子で全米各地の岩場を転戦するようになる。6歳でデビルズタワーを完登。16歳でスポーツクライミング大会で優勝してからは名前が知られるようになり、やがてスポンサーが付くようになる。

しかし遠征したキルギスで反政府軍の捕虜となったり、その時に同行していた女性クライマー ベス・ロッデンと結婚するもすれ違い離婚したり、事故で指を切断したりと、波瀾万丈の人生を送ることになる。

それでも持ち前のタフな精神力とストイックなトレーニングで挑戦を続け、アレックスとの2012年ヨセミテトリプルクラウンや2014年パタゴニアのフィッツロイ縦走などを成し遂げる。ベッカと再婚し息子フィッツが産まれたこともありリスクに対する考え方がしっかりしているのだが、楽観的なアレックスとは非常に対照的だ。

彼が人生を掛けたのがドーンウォールのフリー初登だ。1000mに及ぶ垂直の絶壁エルキャピタンの中でもほとんど手掛かりのない最難関ルート。若手ケヴィン・ジョージソンとルート攻略に取り組み続け、7年越しで初登に成功する。中継等を通して全米が見守る中で、核心のトラバースを決める場面はクライマックスだ。

かなり技術的な内容も多くクライマーには必読の本だが、自然美の描写や人生の困難に対する心構えという面ではクライマー以外にも強く訴えるものがある。


「マッターホルン最前線」



1. 山上の貴重な物語を
2. ヘルンリ小屋
3. シーズン始まり
4. 初めての客
5. 貴重な水
6. 山での飲料水
7. これ以上、悪くなることはない
8. もしザイルが引き裂かれたら
9. 人生の曲がり角
10.固定ザイル・コントロール〔他〕

私はまだ海外の山を登ったことはないが、憧れる山はいくつもある。スイスのマッターホルン(4,478m)は最も焦がれる山だ。その天を指すような鋭く尖った山様はまるで美術品のよう。本書はそこのヘルンリ小屋の管理人が書いたものである。

麓のツェルマットからロープウェイに乗ってシュヴァルツゼー駅で降り立ち、そこから約2時間登ったヘルンリ稜線の上3,260m。そこに1911年からこの山小屋は立っている。1865年にウィンパーが初登頂を果たして以降、7〜9月の短いシーズンに世界中のクライマーが名峰を目指してやってくる。

著者は地元の国際山岳ガイドとしてマッターホルンに350回も登っているが、1995年から山小屋の管理人を務めるようになる。毎日夜明け前から夜遅くまで、食事の用意や清掃などに追われる忙しい日々だが、顔馴染みの山岳ガイド仲間や世界一美しい名峰が励みになる。

重要なのはここが山岳レスキューの最前線であるという点だ。著者はツェルマット救助隊副隊長として、無線で救助要請が入れば誰よりも早く現場に急行する。滑落や落石などで負傷した登山者の安全を確保しヘリで搬送する。凄惨な遺体を目にすることも珍しくない。

迷惑な登山者も多い。ガイドなしで登攀し遭難したり、仮病でヘリを呼んだり。飲料水を買わずにトイレの水で調理をしたことで、山頂から腹痛で救助要請を出した登山者がいたというのには驚いた。

著者は本を執筆したのは初めてだと思うが、短い文章で読み易く、どのエピソードも非常に面白い。そして各エピソードの最後のキーワードが必ず次に繋がっていて、非常によく練られている。

私にはマッターホルンを登頂するのは難しいだろうが、いつかこの山小屋までは登りたいと思っている。著者にはその時まで管理人でいてほしい。

深田久弥 「雲の上の道」

第1章 出発まで
第2章 カトマンズまで
第3章 ベース・キャンプまで
第4章 ジュガール・ヒマール
第5章 ランタン・ヒマール
第6章 帰途
第7章 後日談

新型コロナウィルスの猛威が収まる気配を見せない。小池都知事の外出自粛要請を受けて、やむなく今週末は祈るような想いで引きこもっている。やることと言えばもっぱら沢山の読み途中になっていた本達の続きを読むことだ。これもその中の1冊。

恐らく現代の日本の山好き達に最も多大な影響を与えた作家と言えば、「日本百名山」を書いた深田久弥だろう。日本中の山々をくまなく登り、登山史とともに格付けをした「日本百名山」は山好き達の教科書となっている。

その深田久弥が1958年にヒマラヤにも登っていたことはあまり知られていない。結局どの山にも登頂できていないことが理由だろう。槙有恒隊がマナスルに初登頂した2年後のことだ。これはその時の紀行文である。

それまで彼は世界中の資料を掻き集めヒマラヤ登山史などの著書を2冊も書いており、ヒマラヤへの憧れは相当なものだった。しかし当時は海外の山へ行くことは容易なことではなかった。彼の登山隊は作家深田・画家山川有一郎・写真家風見武秀・医師古原和美からなり「Artist Alpine Club」と名付けられたが素人部隊に過ぎない。資金も支援もない。まずはその苦労が克明に綴られている。

コンテナ37箱にもなる物質を調達し、大勢の見送りを受けて何とか神戸港から出発する。海路を1ヶ月かけてインドのカルカッタまで、そこから灼熱の陸路を2週間かけてようやくネパールのカトマンズに到着する。そこで待っていた3人の有能なシェルパと80人のポーターと合流した。

目指したのはジュガールヒマールとランタンヒマールだった。8000m峰はないが、未踏峰の7000m峰が多く残るこの地域で、あわよくば初登頂できればという考えだったのだが、あいにく天候や予算等の都合により断念する。

しかしこの紀行文が面白いのは、よくある登頂記録には割愛されている麓の自然や村人達の生活が活き活きと描写しているからである。ヒマラヤの麓に色とりどりの花々や多様な木々が植生していることは知らなかったし、村人達の陽気さや信心深さも興味深かった。

2ヶ月に渡る山行中、深田隊長はいつもしんがりを山川氏と遅れて歩いて見事な山容を眺めたり、部落で一緒に踊ったりと、非常にのんびりした陽気なムードが漂っていた。私もヒマラヤに登頂することは出来ないだろうが、いつかこんなトレッキングに行ってみたいものである。コロナが収束したら。。
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