日本アルプス

鳳凰山 (地蔵岳)

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鳳凰山の地蔵岳に登ってきた。鳳凰山は地蔵岳・観音岳・薬師岳の三山あるのだが、今回登ったのはそのうちの1つ。これが南アルプスへの初挑戦となる。

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当初青木鉱泉からドンドコ沢を登るつもりだったが、鳳凰小屋の方にコースが悪く雪も深いと言われ、御座石鉱泉から登ることにした。

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6:10に登山開始。登山口には白と黄色のスイセンが見事に咲き乱れていた。

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最初はとにかくひたすら急登。旭岳付近で、御座石鉱泉で見上げた大崩落の最上部を通過する時は少し怖かった。

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10:10に燕頭山(2,105m)に到着。ヒタキ?、エゾムシクイ、アオバズク?、ほか名前も分からない10種類以上の様々な鳥のさえずりが非常に賑やかだった。

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尾根道に出た後は眺望が広がっていた。右手には堂々とした甲斐駒ヶ岳(2,967m)が聳えている。

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2,300mあたりから一気に雪の世界となった。初めてアイゼンを履いたが、しっかり爪が噛んで気持ちが良い。

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12:40に鳳凰小屋に到着し、少し休憩した後にそのまま地蔵岳を目指す。山頂直下は長い砂地の坂。アイゼンもあまり効かずにここでかなり苦しむことになった。一説では地蔵岳は北岳よりもハードだとも。

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15:00ようやく地蔵岳(2,764m)に到着。名前の通り賽の河原には沢山の地蔵が並んでいた。そしてオベリスクは思っていた以上に巨大だった。試しに登ってみたが、強風のため途中で断念した。

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奥には北岳(3,193m)、小太郎山(2,725m)、仙丈ヶ岳(3,033m)が連なっていた。

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お隣には主峰の観音岳(2,841m)。翌朝に登ろうと思っていたのだが、あいにく天候が悪くなり今回は断念した。

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その日は鳳凰小屋に泊まらせてもらう。小屋の方々は親切だし、沢の水は美味しかったし、夜の星空は凄かった。が、夜はいびきの合唱でほとんど眠れなかった。

翌朝に下山後、青木鉱泉で風呂に入ったのだが、そこで聞くとドンドコ沢ルートもコース補修済みだし登るのに問題はないとのこと。次回は青木鉱泉を起点に観音岳・薬師岳を目指そうと思う。

山アートの旅(長野編)

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昨年の流行語大賞トップテンにはソロキャンプも選ばれていた。昨年夏に娘とキャンプをした時に味をしめ、同じ月に長野へもソロキャンプに行っていた。長野の安曇野から大町のエリアには、山に関する美術館や博物館がずらりと並んでいて、以前から行きたいと思っていた。

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安曇野山岳美術館。足立源一郎をはじめ、吉田博・原田達也氏などの素晴らしい山岳画を所蔵。熊谷榧さんの個展も開催していた。

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常念岳山麓にある須砂渡キャンプ場。素泊まり900円。蝶ヶ岳温泉も徒歩圏内。涼しくてセミも蚊もいない。花はサワギキョウ。

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烏川沿いに立つウエストン像。上高地のレリーフは有名だが、こちらは全く知られていない。

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田淵行男記念館。山岳写真家であり高山蝶研究家である氏の写真やスケッチが展示されている。槍ヶ岳山荘の穂刈氏らの写真展も開催されていた。

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大町山岳博物館。北アルプスの成り立ちや膨大な山岳生物の剥製、登山史の展示、飼育されているライチョウなど、予想以上に広くて午後一杯かけても全部見切れなかった。

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木崎湖キャンプ場。クマ出没警戒警報が出ていたり、夜雨が降ったりと大変だったが、翌朝は気持ち良く晴れトビが囀っていた。

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北アルプス展望美術館。ここで日本山岳画協会の史上最大規模の展覧会が開催されていた。F100号以上の作品がずらりと並び圧巻だった。

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北アルプスの山稜はずっと雲がかかっていて見えなかったが、代わりに緑の田の向こうに聳える有明山が印象的だった。また今年の夏もソロキャンプに行きたいがどうだろう。

「氷壁」 井上靖

氷壁 (新潮文庫)
井上 靖
新潮社
1963-11-07


先日井上靖が1969年のノーベル文学賞の候補として検討されていたというニュースがあった。50年の期限を経た情報開示によって明らかになったらしい。私は子供の頃に映画「敦煌」を観て以来歴史小説家というイメージがあったが、山岳小説も書いていたことを知り読んでみた。

この「氷壁」の舞台は1955〜56年。社会人登山家の魚津と小坂の2人が前穂高岳東壁の冬季登攀に挑むのだが、最後のピッチでザイルが切れ小坂が墜落死してしまう。これは事故なのかそうではないのか、世間の騒動の渦中に魚津は投げ込まれてしまう。生前の小坂が惚れ込んでいた人妻 美那子や、小坂の妹かおるといった女性たちとの三角関係なども絶妙に絡み、600頁超の長さを感じさせなかった。

最も印象に残ったのは、生前の小坂が好きだったというロジェ・デュブラの詩「モシカアル日」。デュブラはフランスの登山家であり、この詩を和訳したのは深田久弥である。ダークダックスの「いつかある日」で知ってはいたが、原訳は初めて読んだ。

これまで山で死んだ登山家は数知れない。ビュブラしかり、深田久弥しかり。死して英雄となった者も多く、登山家にとっても本望かもしれない。しかし残された人達にとってはそうではない。それを考えさせられる小説だった。


小島烏水「日本アルプス 山岳紀行文集」



1. 鎗ヶ嶽探険記
2. 山を讃する文
3. 奥常念岳の絶巓に立つ記
4. 梓川の上流
5. 雪中富士登山記
6. 雪の白峰
7. 白峰山脈縦断記
8. 日本北アルプス縦断記より
9. 谷より峰へ峰より谷へ
10.飛騨双六谷より
11.高山の雪
12.日本山岳景の特色
13.上高地風景保護論
14.不尽の高根

先日のウェストンに続いて今回は小島烏水を取り上げたい。日本で最初の山岳会(後の日本山岳会)の創設者である。

小島烏水(1873-1948)は横浜の銀行員、つまり一介のサラリーマンだったが、山に対する情熱は並々ならぬものがあり、毎年有給を駆使して各地の山々を踏破し続けていた。まだ地図もなく猟師や修験者以外は山に登る者などいない時代である。元々文才もあったため、多くの紀行文も残しているが、その代表作が全4巻の「日本アルプス」であり、本著はそのハイライトを抜粋したものである。

冒頭に収録されている”槍ケ嶽探検記”は次のように始まる。「余が槍ケ嶽登山をおもひ立ちたるは一朝一夕のことにあらず。何が故に然りしか。山高ければなり。山尖りて嶮しければなり。」最初はこのような漢文体、後年は口語体と、時代により文体も変化しているが、言葉の美しさは変わらない。

苦労の末に槍ケ嶽登頂に成功し喜んだのも束の間、自分よりも先に登頂し紀行文を発表していたウェストンの存在を知ることになる。そのウェストンを訪ねた際に、日本でも山岳会を作ることを勧められるのである。この2人の出会いが日本登山史の幕開けとなった。

もう1人烏水に大きな影響を与えたのがジョン・ラスキンである。烏水の文章には山中で観察される岩石や植物について詳述しており、彼の博学にも感嘆するが、ラスキンも同様だった。また烏水も山と同じ位に美術を愛し、山岳画のみならず美術全般に通じていた。彼の収集した国内外の版画のコレクションは膨大なものであり、後年に横浜美術館に寄贈されている。

私が再び山にハマったきっかけは横浜美術館で観た丸山晩夏と大下藤次郎の水彩画だったが、これらも彼らと親交のあった烏水の所蔵だったらしい。烏水に感謝しなければいけない。

ウォルター・ウェストン「日本アルプスの登山と探検」




ウォルター・ウェストン(Walter Weston, 1860-1940)。日本アルプスの父であり、日本近代登山史のルーツ的存在である。今日は彼の名著「日本アルプスの登山と探検」を取り上げる。

先日取り上げた新田次郎の「槍ヶ岳開山」にもあったように、江戸時代までは登山というものは修験者、祈祷者もしくは猟師だけのものだった。明治時代になってから初めて純粋にスポーツや観光目的が取り入れられることになった。それをもたらしたのが、開国後に来日した外国人達であり、その内の一人がイギリス人牧師のウェストンだった。

本著は彼が1891年から1894年にかけて中部地方の山々を登り続けた際の探検記である。機関車はまだあまり発達しておらず、移動は人力車か川下り。行く先々で登山したいと言ってもなかなか理解を得られない中、何とか賛同者を得ながら猟師や人夫を伴って各地の山頂を目指す。幾多の困難を乗り越えながら、浅間山に始まり、木曽駒、乗鞍、槍、立山、富士山、白馬といった名山を次々と踏破し続ける様子は痛快だ。

また本著が面白いのは、明治初期の国内の様子が外国人の視点で綴られているところ。まだ西洋文化に触れたことのない地方の村々では歓待と奇異の目で迎えられる。彼自身も外国人としてはかなり日本の文化に精通しているが、それでも様々な違いを痛感する。そしてそれは私達現代人にも通じるものがある。特に彼が見た山岳信仰の様子については興味深い。

山好きのみならず、古き良き日本を知りたい人にもお勧めの一冊。

新田次郎「槍ヶ岳開山」

新装版 槍ヶ岳開山 (文春文庫)
新田 次郎
文藝春秋
2010-03-10





1. 序章
2. 出郷
3. 笠ヶ岳再興
4. 槍ヶ岳への道
5. 鉄の鎖
6. 飢餓と法難
7. 終章

私が北アルプスで最も好きな山は槍ヶ岳である。あの遠くからでも分かる尖峰が特徴的だ。その槍ヶ岳を開山した修行僧の話と聞けば当然興味があった。それが新田次郎と聞けば尚更だ。

主人公は播隆上人。富山の農民の出だったが、百姓一揆の際に誤って妻おはまを刺殺してしまったことを機に、仏の道を歩き始める。読む前は、この播隆があてもなく彷徨った末に槍ヶ岳に登ったという話かと思っていたが違った。槍ヶ岳開山とは周囲の期待を背負ってのことであり、その前にも笠ヶ岳再興という仏業も成し遂げていた。

この本を読んでいると仏教界への理解も深まる。地域のためと事業を推進する飛騨国本覚寺、厳しい戒律の摂津国宝泉寺、商魂逞しい山城国一念寺。全く方針の異なる各寺での経験を経て、播隆が自身の信じる仏の道を歩き続ける様子に好感が持てる。また図らずも名を上げていく様子が面白いが、その結果物語は思いもよらぬ展開をみせていく。

私には信心はないが、登山は悟りへ近づくことだと言う播隆の言葉には分かる気がした。

「高熱隧道」

高熱隧道 (新潮文庫)
吉村 昭
新潮社
1975-07-29





勤め先の山仲間の女性2人組は、昨秋に下ノ廊下へ行って来た。下ノ廊下とは、富山は黒部峡谷にある昔の発電所建設時の工事通路である。紅葉期の1ヶ月間のみ通行可となり、絶景を見ることができる反面、延々と続く断崖絶壁は常に死と隣り合わせという場所だ。仕事が終わってからテントを背負って夜行で出発して行ったが、週明けに無事に出勤してきたので安心した。

そんな彼女が今度貸してくれたのがこの本。戦時中に日本電力株式会社が黒部第三発電所を建設するために黒部峡谷で行った隧道(トンネル)工事の記録小説だった。

着工は昭和11年。工事を請け負った佐川組の根津と藤平は工事責任者として、技師や数多の人夫を引き連れてそれまで秘境とされてきた黒部峡谷の奥地に入った。絶壁に僅かに刻まれた歩道を重い資材を担ぎ上げる最初の段階から、既に十数名が滑落死している。

そして実際に掘削工事が始まると、上流域は温泉湧出地帯であることが判明した。掘り進むほどに岩盤の温度は上昇し、最終的には165度にまでなる。坑道内の高温・熱湯、自然発火するダイナマイトなどで連日のように死者が続出する。そんな中で根津や藤平は、飛散した遺体を拾い集めたり、高温や自然発火を防ぐ妙案を実行することによって、人夫達の心を何とか繋ぎ止めていた。

しかし脅威はそれだけではなかった。厳冬期のある晩に轟音が鳴り響き、84名とともに宿舎が忽然と消えた。翌朝から救出活動が始まるが、いくら雪を掻いても何も出てこない。そして2ヶ月後、500m離れた岩壁に叩きつけられていた宿舎が発見される。原因は泡雪崩による大爆発だった。そんな自然現象があることを初めて知った。

結果的に4年間に300人を超える犠牲者を出した末に、昭和15年に工事は終工を迎える。隧道が貫通した瞬間の高揚感もあったが、むしろ全体を通して痛感するのは大自然の恐ろしさと、工事現場における人間関係の異様さであった。私が下ノ廊下を訪れることは恐らくないだろうと思う。

新田次郎「聖職の碑」




第一章 遠い山
第二章 死の山
第三章 その後の山
取材記・筆を執るまで

勤め先の会社には、私以外に山好きが3人いる。内2人は女性なのだが、この2人が男性以上に強者で、富士山を麓から登ったり、東京マラソンに参戦したり。その1人に私が今夏娘と木曽駒ヶ岳に行ってきたことを話したところ、一冊の本を貸してくれた。それが新田次郎の「聖職の碑」だった。

時代は大正2年。長野県伊那の中箕輪高等尋常小学校には、実践主義教育を信条とする赤羽校長がいた。教育現場に様々な不穏な空気が蔓延する中、赤羽は毎夏恒例の木曽駒ヶ岳登山に36人の生徒らを引率して出発する。それが未曾有の悲劇へと繋がった。

急変する天候。稜線で荒れ狂う暴風雨。ようやく辿り着いた伊那小屋は無残にも壊されていた。急ごしらえの小屋の中で疲労と厳寒と睡魔に耐え忍ぶ中で、1人の少年が命尽きる。これが混乱の引き金となり、一団は恐怖から我先にと暴風雨の中へ飛び出していき、赤羽らは必死に後を追う。ここからの1人1人の生死を分けた運命が克明に綴られている。

私も以前教員時代に登山旅行の引率をしたことがあるので、生徒を死なせたこの時の赤羽の覚悟が痛い程に胸に刺さる。結果、赤羽と10人の少年達が帰らぬ人となったのだった。

今回初めて新田次郎作品に触れたが、彼が教育分野も含めていかに入念な調査や取材を元に執筆したかがよく分かった。今でも稜線に残る遭難記念碑を今度登った時にはお参りしたいものである。

木曽駒ケ岳登山

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本当は前週に行くはずだった木曽駒ヶ岳登山。台風13号接近のためやむなく日程変更し先週行ってきた。木曽駒ケ岳(2956m)は中央アルプスの最高峰。にもかかわらず、2612mまではロープウェイで上がることができ、千畳敷カールでは雄大な景色とお花畑も拝むことができるということで、子連れ登山にはピッタリだと思っていた。山小屋に泊まってみたいと娘も言っていたし。

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しかし朝中央道を下っている時は晴れていたのだが、岡谷を過ぎたあたりから雲行きが怪しくなってきた。駒ヶ根に到着し、菅の台からバスに乗り換えた時に雨が降り始めた。ロープウェイに乗って千畳敷に着くと、そこは完全にガスの中。肌寒い霧雨に覆われ、視界もほとんどなかった。

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登山届を出し、駒ヶ岳神社でお参りをしてから出発する。名前は全く分からないのだが、黄色・白・ピンク・青など色とりどりの花が一面に咲いていた。眺望はないが、花畑が辛うじてここが千畳敷カールであることを証明していた。

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八丁坂の登りが始まる。もうここからは周りに人はいなくなった。娘は弱音も吐かずに頑張っていた。

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霧の向こうには、かすかに宝剣岳の姿が見えた。晴れていれば、さぞ立派な山容だっただろう。

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1時間20分ほど掛かって、ようやく乗越浄土を越えて、宝剣山荘に到着した。この日の予定では、駒ヶ岳を越えて頂上木曽小屋に泊まるはずだったのだが、もうこれ以上は厳しそうなので、今夜はここに泊まることに。

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こんな天気のため、うち以外に2組しかおらず個室も貸し切りだったが、後で韓国人団体がやってきたため賑やかになり、夜はなかなか寝られなかった。

翌朝の天気は期待も空しく暴風雨。気温は9℃だったが、風雨が強く体感的には5℃程度。結局娘に見せたかった雄大な眺望も夕陽も御来光も、何も見せることは出来ず、駒ヶ岳登頂も断念。持参した防寒着を全て着込み、足元に気を付けながら下山した。

下山後は「こまくさの湯」で温泉に入り温まり、名物のソースカツ丼と信州そばを賞味。少しは旅気分を味わえただろうか。ほとんど苦行のような今回の登山。終始頑張っていたが、今後も娘が登山についてきてくれるかどうかは微妙なところだ。

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「白旗史朗 フジクロームで描く美しき日本の屋根」

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六本木のフジフィルムスクエア開館十周年記念企画の第3弾として、今度は「日本山岳写真界の至宝・白旗史朗  フジクロームで描く美しき日本の屋根」が開催されていました。

タイトルの通り白旗氏は日本を代表する山岳写真家です。私の中でも、昔実家で氏の直筆サイン入り写真集を見て以来、山岳写真家=白旗史朗という強いイメージがあります。

国内外の多くの山の作品がある中で、今回は南・中央・北アルプスの作品約40点が展示されていました。残雪の春山、野花の夏山、紅葉の秋山、吹雪の冬山、四季折々の様々な色に彩られた美しい日本アルプスの山々の一枚一枚に、思わず感嘆の声を上げながら観入ってしまいました。場内には愛用されていたかなり旧式のカメラも展示されていましたが、この重いカメラや機材を持って厳冬の雪山を登り、シャッタータイミングを待ち続けるのを想像すると頭が下がります。

中でも氏の真骨頂は、南アルプスから捉えた霊峰富士。このテーマでは数多くの作品が発表されていますが、本展でもいくつか展示されていました。中でも千枚岳からオレンジ色の朝焼けを撮った「明け初めし中に」と、ピンクの夕暮れと満月を捉えた「富士に満月登る」は絶品でした。

そもそも富士山は撮る場所によって山様が全く変わります。私も毎朝最寄駅までの道中に拝んでいますが、神奈川から観る富士は朝焼けに白い山頂が映える一方、夕焼けは逆光になります。しかし南アルプスからは夕暮れでも山肌が見える一方で、朝焼けが逆光。しかも神奈川からは見えない山頂に2本の角が生えたような山様が拝めます。

いずれ南アルプスにも登らなければいけないなぁと思いました。

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