山と旅

「鎌倉殿の平山季重」

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NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には、鎌倉殿に仕えた数多くの御家人が登場していたが、そこで描かれていた以外にも多くの御家人がいた。私の郷土である日野市平山のヒーロー平山季重もそのうちの1人である。

そんな季重に関する資料を展示する「鎌倉殿の平山季重 〜中世日野の武士の様相〜」が日野市郷土資料館にて開催されていた。そこで実家に帰ったついでに、娘と母親を連れて行ってきた。ここは廃校になった小学校の一角を利用した資料館で、一つの教室に平山季重の資料が展示されていた。それらを一通り見て季重について理解を深めることが出来た。

まずこの地域では古代より太陽祭祀を任務としていた日奉氏が勢力を持っていた。そこへ京都の藤原道頼の子・宗頼が加わり、武蔵七党の1つ「西党」となった。宗頼の7代目にあたる季重の父・季綱が平山の地に移り、氏を名乗ることになる。

当時八王子から日野には京都の藤原氏の荘園「船木田荘」が広がっており、平山もこれに属していた。その繋がりから季重は若い頃には京都で御所の警備にあたり「武者所」と名乗ることを認められていたらしい。

やがて京都では政局争いが活発化していく。季重は1156年の保元の乱では源義朝の軍勢に、1159年の平治の乱では源義平の軍勢に加わり戦っていたということが「保元物語」「平治物語」に記されている。しかし源氏方が敗れたことで、季重は武蔵国平山へ戻ったようだ。

その後、源頼朝が旗揚げすると季重はこれに加わった。「吾妻鏡」には季重の金砂城の戦いや宇治川の戦いでの活躍が描かれている。さらに平氏討伐のため自身の一団ともに西国へと向かい、源義経とともに一ノ谷でも戦い功名を挙げたらしい。

この武勲に対して朝廷から義経らとともに任官されている。義経はこのことから頼朝の怒りを買ったわけだが、一方の季重は頼朝の許しを得たようだ。なぜなら頼朝の子・実朝が誕生した時には、鳴弦の役まで務めているからだ。そして実朝と同じく1219年に生涯を閉じた。

ちなみに娘が興味を持ったのは、展示よりも廃校になった小学校の方だった。仕方なく今度は私も娘と一緒に校内外の探検に付き合うのだった。

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畠山重忠を訪ねて〜神奈川編

先週の「鎌倉殿の13人」では、畠山重忠が遂に北条時政の謀略により殺されてしまった。
自身が潔白であることを示すために、3万の北条勢に対してわずか134騎で立ち向かったという史実は、彼が坂東武者の鑑として永年人気の高い理由の1つである。ドラマでも思っていたよりも重忠の最期ががっつりと描かれていて満足だった。
前回は彼の地元の埼玉を訪ねたが、今回は終焉の地を含め、神奈川県内のゆかりの地を訪ねてみた。

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<鎌倉歴史文化交流館>
まずは鎌倉から。畠山重忠は生前に武蔵御嶽神社に赤鎧を奉納しており、神社の宝物館に収蔵されているが、そのレプリカが鎌倉歴史文化交流館に展示されている。

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<畠山>
葉山町にある205mの低山。1180年まだ平家方だった重忠が三浦氏の衣笠城を攻める際にこの山頂に本陣を張ったことから、姓が山名に残っている。今は眺望はほとんどない。

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<畠山重忠邸跡>
その後に鎌倉御家人となった重忠は、源頼朝の大きな信頼を得る。重忠も公務のために幕府のすぐ側に邸宅を構えた。鶴岡八幡宮の東側に石碑のみ残る。

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<東光禅寺>
横浜市金沢区にある東光禅寺は重忠の開山。ここに重忠の念持仏・位牌・馬具・供養塔がある。御住職のご好意により御本尊にてお参りさせて頂くことができ、念持仏の薬師如来像と位牌を拝見することができた。

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<畠山重保公廟所>
東光禅寺の近くの六郎谷に重忠の子 重保の墓がある。重保は重忠に先立って鎌倉由比ヶ浜で三浦義村に殺されている。

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<畠山重忠公碑>
畠山重忠は1205年6月22日に現在の横浜市二俣川で北条義時軍と戦い最期を遂げた。古戦場跡には畠山重忠終焉の地碑が立っている。

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<首洗い井戸の跡>
少数ながら4時間にも及ぶ激闘の末、最期は愛甲末隆の矢に当たり討死した。切られた重忠の首はかつてここに水が湧き出ていた井戸で洗い清められたとされる。

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<畠山重忠首塚>
重忠の首が祀られた場所、あるいは兜を埋めた場所といわれる。小さな地蔵堂の石造七重塔が立っていた。

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<薬王院・六塚>
3万の北条義時軍と戦って全滅した重忠の一族郎党134騎は、ここにある6つの塚に葬られた。

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<駕籠塚>
重忠の妻「菊の前」は、合戦の知らせを受け駆けつけたが、重忠の戦死を聞き自害した。ここに籠のまま埋葬されたと伝わる。

10月には横浜市立博物館で重忠に関する展示も予定されているらしいので、楽しみにしている。
いつか畠山重忠を主人公にした大河ドラマも制作されないものだろうか。

畠山重忠を訪ねて〜埼玉編

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の登場人物の中で、私が源氏以外で最も好きなのは畠山重忠である。多くの癖の強い登場人物がいるドラマの中では単なる好青年的な描かれ方なのだが、実はこの人物は坂東武者の鑑として多くの伝説を持つ武将である。

私が彼のことを初めて知ったのは、2年半前に奥多摩の武蔵御嶽神社で銅像を見た時だった。聞いたことのない名前だと思ったが、その後関東各地に彼の史跡があることを知るにつれ、永年人気の高い武将であることを知った。

畠山重忠は1164年に今の埼玉県深谷市畠山で生まれた。その後は同じ埼玉県の嵐山町に館を構え、若くして武蔵中に名を知られる武将となった。今春に埼玉にある彼のゆかりの地を訪ねてみた。

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<井椋神社>
まずは深谷市畠山に向かう。重忠の家系は代々秩父の地を治めていたが、父重能の代にこの畠山の地に移ってきた。ここはその際に秩父から勧請された神社。

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<畠山重忠公産湯ノ井戸>
1164年に重忠はこの地で産まれた。生家跡の畠山重忠公史跡公園内には、重忠が産まれた際に用いられた産湯の井戸が残っている。

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<鶯の瀬>
近くを流れる荒川の河岸に立つ碑。豪雨時に徒渉しようとした重忠に、一羽のウグイスが浅瀬を教えたという伝承に由来する。

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<満福寺>
重忠が再興した畠山の菩提寺。境内には立派な畠山重忠公菩提所が立っており、重忠の位牌などを安置している。

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<畠山重忠公の像>
史跡公園内にある重忠像。1184年の源平合戦の鵯越で馬を担いで崖を下ったという伝承に基づいている。この地域の小学校では運動会で馬を背負って競争するらしい。

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<畠山重忠公墓>
史跡公園内にある重忠の墓。建物内には6本の大きな五輪塔が並んでいた。周囲には父重能墓や重忠没後百年記念碑などもあった。

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<菅谷神社>
重忠は1187年までに畠山から今の嵐山町に移り住んだ。菅谷神社は重忠が近江からこの嵐山に勧請した建てた神社。

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<菅谷館跡>
重忠が嵐山町に建てた館の跡地。本廓・二ノ廓・三ノ廓まである広い城郭だが、戦国時代に拡張されているらしい。

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<埼玉県立嵐山史跡の博物館>
館跡地内にある博物館。重忠に関する資料が豊富で、1205年に重忠が最期に菅谷館から鎌倉へ向かったことを記載した吾妻鏡も展示されていた。

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<畠山重忠像>
館跡地内に立っている重忠像。謀叛の意がないことを示すため、平服を着て鎌倉方面を向いて立っていた。

オンラインツアー① ~シアトル編

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もしコロナがなかったら、昨年か今年の夏休みには娘を連れてアメリカに行っていたはずだった。シアトルに叔母や従弟らが住んでおり、以前から来てくれと言われていたからだった。

このコロナ禍で世界的に旅行業や航空産業は壊滅的なダメージを受けた。日本ではようやく6月から外国人旅行者の受け入れが再開したが、多くの規制が障害となり、私の仕事も復活にはほど遠い状況である。

世界的なパンデミック中に旅行業界はオンラインツアーという苦肉の策を考えた。ネット上でガイドが各地を案内するというものだが、結局大した売り上げには繋がらなかった。ただ少しでも旅行に行った気分になれるものではあるので、今回私も試しにシアトルへオンライン旅をしてみようと思う。

<Day 1>
シアトルはアメリカ西海岸の一番北にあるワシントン州の州都で、夏でも涼しく過ごしやすいと言われている。ボーイングやマイクロソフト、アマゾンといった世界的大企業の本社があり、スターバックスの発祥地でもある。しかし私の旅の目的はこれ。

コロンビアセンター
① Columbia Center
馬鹿と雲は高い所が好き。ということで、私は旅先ではまず一番高い建物に登ることにしている。287mのコロンビアセンターはワシントン州でも一番高いビルで、シアトルの街並みだけでなく、晴れていればマウントレーニアも見えるはず。

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② Kurt Cobain's House
90年代グランジの象徴カート・コバーンが住んでいた家がシアトルにある。敷地内には入れないが、隣のビレッタ・パークには彼がいつも座っていたベンチがあり、ファンが絶えないらしい。

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③ Jimi Hendrix Statue
60年代ロックのレジェンド、ジミ・ヘンドリックスもシアトル出身。ストリートビューでは見辛いが、街中にあるこの銅像が有名。他にもシアトルには彼の公園や墓などもあり、時間があれば行ってみたい。

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④ Museum of Pop Culture
この奇抜な建物はマイクロソフト創業者に建てられた。ジミヘンやカートを始めとするロックやポップカルチャーの博物館。多分ここで半日くらい費やしそうだ。ちなみにシアトルのシンボルでもあるスペースニードルというタワーはこのすぐ隣。

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⑤ The Crocodile
シアトルは90年代初頭に一世風靡したグランジの発祥地であり、NirvanaやSoundgardenらはここで演奏していた。出来れば夜に行ってローカルバンドの演奏を愉しみながらビールでも飲みたい。



<Day 2>
初日のテーマは音楽だったが、2日目のテーマは山である。ということで早朝からレンタカーを2時間半ほど飛ばして向かうのは、レーニア山国立公園である。レーニア山はかつて日本人移民にタコマ富士と呼ばれ親しまれた。標高は4,392mで、夏でも山頂は雪に覆われている。

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① Reflection Lake
まず立ち寄るのは、山中腹にあるこのリフレクション・レイク。名前の通り湖面に映るレーニアの山容を撮影したい。

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② Henry M Jackson Visitor Center
そして車は標高1,647mのパラダイスにあるジャクソンビジターセンターに駐車する。ここで情報取集をしてからトレイルを歩き始めよう。

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③ Panorama Point
パラダイスからスカイライン・トレイルを歩くこと約3時間で、標高2,074mのパノラマポイントに到着する。本当は山頂を目指したいが、この先は氷河登山と高度順応必須の上級者向けとなる。いずれ。



と、今回はこんな行程を組んでみたが、多分これでは娘はついて来ないだろうなぁ。
ちなみに叔母の話では、2020年の黒人差別に対するブラック・ライブズ・マター暴動の際には、シアトルではデモ隊が街の一角を数か月も占拠していたらしい。またトランプが返り咲きそうな気配もあるので、バイデン在任中に行きたいものだな。

御岳山探訪

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2年前の秋に親父とお袋を連れて奥多摩の御岳山に旅行に行った。ちょうどコロナも落ち着いていて、GoToトラベルも推進されていた頃だった。先日は一周忌だったので、親父との最期の旅行をちょっと振り返ってみた。

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11月の秋晴れの日だった。御岳山へ行く途中で、神代橋から吉野渓谷を見下ろした。日本百景の1つらしいが、自殺の名所だそうで、かなりの高さだった。

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滝本駅からケーブルカーで登り山の上に出る。御岳平からは眺望も良く、赤いモミジが綺麗だった。

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急な坂道を親父と交代でお袋の車椅子を押した。親父は頭はボケてても体力は衰えていなかった。武蔵御嶽神社への参道は紅葉がライトアップされ幻想的だった。

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御師集落の宿坊 憩山荘に泊まり、豪華な夕食を堪能した。しかし認知症の親父は知らない土地に不安がり、しきりと帰りたがっていて困った。

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夜に外へ出てみると、何の音もしない静かな暗闇が広がっており、夜景と満天の星空が見事だった。

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翌日はせっかくなので、奥多摩湖へ立ち寄った。大河内ダムの上を少しだけ歩いて、水と緑のふれあい館で昼食を食べた。

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奥多摩周遊道路をぐるりと登り、月夜見第一駐車場から奥多摩の山々を見渡した。鷹ノ巣山など主脈の山々が秋色に染まっており、かつて山好きだった親父も少しは喜んでいたようだった。

こんな感じで旅行を終えて帰ったのだが、親父は30分も経てばもう旅行へ行ったことなど記憶に残っていないのだった。苦労の甲斐がないのだが、それが認知症なのだから仕方ない。最期に旅行に連れて行けたことと、奥多摩に思い出を刻むことが出来たことに自己満足することにしている。

「神坐す山の物語」 浅田次郎

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初めて御岳山に行ったのは、まだ娘が小さい頃だった。それまで私は幼少の時から高尾山には何度も登っていたが、御岳山のことは知りもしなかった。家族で日原鍾乳洞へ行った帰りに、ケーブルカーがあるのを知り御岳山に立ち寄ってみた。山頂駅から眺めた都心までの眺望を堪能でき満足した。その時、山の上に武蔵御嶽神社と宿坊が立ち並ぶ町があることを知り驚いたものだった。

作家の浅田次郎氏の母親は、この武蔵御嶽神社の神官の娘だった。氏も幼い頃から毎年その実家の宿坊で時を過ごした。曾祖父が験力を持ち、祖母・伯父母そして氏自身も幼い頃から見えざるものが見えた。本書にはそうした氏自身や家族の不思議な体験が短編集として綴られている。

明治期に曾祖父と祖母が見た兵隊の話。大正期に伯母が神隠しにあった天狗の話。戦後に氏が見た神渡りの話、等々。私はこれまで霊というものを信じたことなどなかったのだが、どの話を読んでもさもありなんという気がした。怖いというよりも幽玄な世界観に惹き込まれた。武蔵御嶽神社の創建は紀元前91年と言われ永い歴史を持つが、全く信心のなかった私にも山の神や霊を信じさせるものがある。

一昨年の秋、私はまだ生きていた親父を御岳山に連れて行ったことがある。その時に泊まった宿坊は、本書舞台の2件隣だった。豪華な夕食も参道の紅葉も、認知症の親父の記憶には残らなかったが、私には忘れ難い。

今日7月17日は私の親父の命日。先ほど無事に一周忌を終えることが出来た。亡くなった人が成仏することを神上がるというらしいが、親父も神上がることが出来ただろうか。

「マゼラン 最初の世界一周航海」

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ピガフェッタ『最初の世界周航』
1. 香料諸島遠征の準備
2. サンルカル出帆
3. ブラジル到着
4. 巨人の国
5. 海峡の発見
6. 太平洋を行く
7. 泥棒の島々
8. フィリピン諸島倒着
9. セブ王との交歓
10.マゼランの死
11.ブルネ訪問
12.ティドーレ入港
13.ビクトリア号の出帆
14.東インドの国々
15.喜望峰からヴェルデ岬諸島まで
16.世界周航の完成
トランシルヴァーノ『モルッカ諸島遠征調書』

これまで多くの近現代の冒険譚を読んできたが、まだ世界が謎に包まれていた中世の紀行文を見つけた。初めて世界一周航海し生きて帰国したマゼラン船隊の生き残り船員の実録となれば、つまらないはずがないだろう。

大航海時代にはポルトガルとスペインの2大国が香辛料を求めて海外遠征を競い合っていた。大西洋から東はポルトガル、西はスペインという取り決めの元で、1492年にスペインのコロンブスがアメリカ大陸を発見し、1498年にポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ喜望峰を経てインドに到達していた。

マゼランは本名をフェルナンド・マガリャネスという。ポルトガル人として航海経験を積み、香辛料産地のマラッカ(インドネシア)も巡ったが、自身の報酬の少なさに不満を抱き、敵国のスペインへと移った。そしてスペイン皇帝の承認を得て西周りでマラッカに到達するべく1519年8月に5隻のスペイン艦隊を率いて出帆した。

しかしこの航海は苦難の連続だった。南米海岸沿いに南下を続けるが、極寒と暴風と食料不足で船員の士気は低下し、餓死者も出てくる。やがてスペイン人の船員たちはポルトガル人であるマゼランに対して不信を抱き、1隻が母国へ逃走してしまう。

運良く海峡を発見し大陸を通過したが、その後は延々と続く太平洋。出帆から1年半後にようやくフィリピン諸島に到着した。セブ島の王の歓迎を受けたものの、他島との無謀な戦いでマゼランは戦死。船隊の通訳だったマゼランの奴隷に裏切られて王達の奇襲に合い、残った船員達は命からがら島を逃げ出す。

本書では訪問する世界各地の民族文化や各島の王と交換した贈答品についても詳述している。言葉も文化も全く異なる訪問者を歓迎するのみならず、キリスト教に改宗までする王がいたのは驚いた。鎖国日本とはえらい違いだ。

最終的に彼らはマラッカに到達し、香辛料を残った1隻に積めるだけ積み込み、1522年9月に帰国するのだが、たかだか香辛料のためにここまで命を賭けるというのが正直私にはピンと来なかった。ただその香辛料のお陰で地球が丸いのだということが実証されたというのが面白い。

三浦アルプス

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丹沢主脈縦走以来、電車で行く縦走山行にハマっている。前回は鎌倉アルプスに行ったので、今度は三浦アルプスへ行ってみた。三浦半島を東の東京湾から西の相模湾まで横断するルート。11:15 京急線の安針塚駅から歩き始めた。

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住宅地を抜け塚山公園の急坂を登り安針塚に着く。徳川家康に仕えた英国人 三浦安針(Williams Adams)の墓。予想以上に立派。

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十三峠がどこか分からなかったが、その付近から見えた横須賀の街中。港には大きな黒いタンカーが停泊していた。一旦峠を下る。

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横横道路を潜るトンネルを抜けるのだが、これが下調べ不足でなかなか見つからず探し回る。ここで30分間ロスしてしまった。

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12:45 畠山(205m)山頂に到着。ここは1180年に畠山重忠が衣笠城を攻める際に本陣を張った場所らしいが、今や眺望はほとんどなかった。30分間昼休憩。

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稜線を歩き13:45 乳頭山(211m)に到着。名の通り少し急登だった。ここがこの付近では一番標高が高いが、眺望はほとんどなし。

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茅塚の先の鉄塔の下で、初めて眺望ポイントがあった。新緑が綺麗で、ウグイスやガビチョウも賑やかだ。

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この後の稜線が辛かった。ひたすらアップダウンを繰り返し、左右はずっと木立や薮で眺望がない。途中で辛うじて右手に撮れた上ニ子山(208m)。

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15:45 ようやく観音塚に到着。大きく枝分かれしたタブノキの巨木の前に、小さな観音様が並んでいた。

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17:00 仙元山(116m)に到着。ビャクシンの大木と石碑、そしてその向こうには相模湾が広がっていた。

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17:30 無事に下山し森戸海岸に到着。沈む夕日をバックに富士山と江ノ島がうっすらと浮かび上がっていた。

さて、この三浦アルプスを酷評したい。まずはとにかく眺望がほとんどない。扉絵になるような稜線の写真を撮りたかったのだが、そんなポイントはどこにもなかった。
またルート上に休めるようなベンチも全然ない。道が狭くてすれ違うのがいちいち大変。途中ルートが分かり辛く、夏は藪漕ぎになるのではないか。
要するに結構ハードな割に見返りが少ないのだ。ということで余りお勧めしないが、もし行くなら冬が良いかと思う。

鎌倉アルプス

鎌倉アルプスを一度歩いてみたいと思っていた。しかし2019年の台風の影響により、天園から瑞泉寺までの区間が長い間通行止めとなっていた。それが今年の4月にようやく開通したということで、喜び勇んで向かった。

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10:15 今回は極楽寺からスタートする。この辺りは鎌倉時代には外郭防御の西限だったらしい。極楽寺の開基は北条義時の三男重時。

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しばらく谷戸の集落を歩いた後、大仏坂トンネルの上で眺望が開け、遥か遠くにこの日歩く鎌倉アルプスの山並みが見えた。

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裏大仏・葛原岡ハイキングコースは細かいアップダウンあれど気持ち良い稜線歩き。姿は見えないが、あちこちでウグイスの囀りが響き渡る。

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11:10 源氏山公園に到着。この付近で木の梢をつたうタイワンリスの姿を見つけたが、写真は撮れず。この辺一帯に繁殖した外来種らしい。

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葛原岡神社。鎌倉時代末期に後醍醐天皇の倒幕計画に加わったことで北条高時に捉えられ処刑された日野俊基を祀っている。

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鎌倉五山第四位の浄智寺。シャガの花が一面に咲き乱れており見事だった。ここで一旦北鎌倉の町に降りて昼飯に蕎麦を食う。

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お次は明月院のルートから主脈に登る。梅雨時には紫陽花が綺麗だろう。本当は六国見山にも寄りたかったのだがカットした。

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12:50 勝長獄展望台。眺望良く麓には建長寺、その向こうには鎌倉の市街と由比ヶ浜が見渡せた。ただあいにく富士山は見えず。

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13:30 大平山山頂(159m)に到着。鎌倉市最高峰とのことだが、すぐ隣がゴルフ場になっており趣きは全くない。

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天園休憩所でおでんを頂く。毎朝掘ってくるというタケノコが絶品だった。おばちゃんが私の母と同郷だったため話に花が咲いた。

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天台山一帯には北条首やぐらが無数にあった。鎌倉末期に北条一族870人が東勝寺で自害したが、多くがここにも葬られたらしい。

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14:55 無事に下山し瑞泉寺に到着。おばちゃんの話では今回の鎌倉市の登山道整備が遅れたのは一部が瑞泉寺境内だったかららしい。

ということで鎌倉アルプスは低山ではあるが見所が多く満足な山行だった。もし瑞泉寺ルートが開かなかったら市境広場へ抜けて横浜アルプスへ出るルートも考えていたのだが、それはまたの機会にしようと思う。

星野道夫「旅をする木」

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白夜
早春
ルース氷河
もうひとつの時間
トーテムポールを捜して
アラスカとの出合い
リツヤベイ
キスカ
ブッシュ・パイロットの死
旅をする木、他

アラスカに生涯を捧げた写真家 星野道夫。その名前は前から知っていた。現在カナダで活躍されている写真家の大竹英洋さんが、昨年末にヤマケイが開催したオンライントークイベントで、影響を受けた本として本書を紹介していた。なので早速読んでみた。

星野さんはアラスカに憧れ19歳の時にエスキモーの村長に手紙を書いた。半年後に返事が届き、夏の3ヶ月を村長家で過ごす。そして1978年に移住しアラスカ大学の野生動物学科で学ぶかたわら、アラスカ各地の大自然に飛び込んで行った。ブルックス山脈の未踏の山谷を歩き、北極海の湾岸で舟を漕ぐ。アラスカに住んで18年、写真家として旅を続ける彼の日々が綴られていた。

彼が追い続けたのは野生動物たちだった。ツンドラで季節移動を続けるカリブーの群れ。南東アラスカの海面から飛び上がるザトウクジラ。たった一匹でマッキンレーを越えるオオカミ。大自然の動物たちの躍動感な姿が描かれていた。

登場するのは動物だけではない。彼がアラスカへと渡るきっかけとなった写真家ジョージ・モーブリィ。アラスカ核爆破計画を阻止した動物学者ビル・プルーイット。アサバスカンインディアンの曹長。クジラ漁を続けるエスキモー。墜死したブッシュパイロット。これはアラスカの大地を愛した人々の物語でもあった。

そして、ちょうどこの本を読んだタイミングで、彼の回顧写真展「悠久の時を旅する」が横浜あーすぷらざに巡廻してきたので娘と観に行った。会場内には圧倒的なスケールのアラスカの大自然と、そこに生き生きと息づく野生動物、そして自然や動物たち共生する人々を捉えた大きなパネル写真がずらりと並んでいた。さらには、旅の始まりとなった村長との手紙、愛読書やカメラなどの遺品まで展示されており、彼の生涯を一望できる素晴らしい内容だった。

1996年に彼はカムチャッカでヒグマに襲われてこの世を去るのだが、まだ新しいテーマを追い求めており志半ばだった。それでも彼が生前に残した多くの作品から、私達は学ぶべきことが沢山あると思う。

悠久メイン
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