娘と美術部

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娘は中学に入学したと同時に美術部に入部した。スポーツが苦手な娘が運動部に入るはずもなく、最初から美術部一択だった。面倒臭がりな娘は帰宅部になる可能性もあったが、小学校から仲の良かった友達も一緒だったことが後押しとなった。

部員は1〜3年まで30名ほど。活動は平日の放課後に週3日程度。吹奏楽部に入った親友が週末まで鬼のように練習しているのに比べるとかなり少ない。活動内容も美術室で友達と雑談しながらのんびり絵を描くだけという緩いスタイルが娘の性に合っていたようで、毎週結構楽しそうに参加している。

それまでめっきりデジタル絵ばかりになっていた娘だったが、美術部に入ったことでアナログ絵の楽しさも再発見できたようだ。クロッキーや校外スケッチ、水彩画でのグラデーションの描き方などを学んでは、ドヤ顔で私に教えてくる。夏前には高幡不動尊のあじさいをスケッチしに行ったが、ささっと描いていた割には色合いや形の捉え方が上手いなと感心した。

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夏休みにも何日か活動日があり登校していた。2学期の始まりが憂鬱な生徒達を励ますために、学校の全教室に先輩達とみんなで花火の黒板アートを描いて来たという。ちょうど登校初日が引き取り訓練だったので、私も観せてもらったが、これがなかなか見事なものだった。私が先生ならこれは絶対に消せないだろう。

10月には中学で文化祭があった。美術部として一年の中で最大のイベントである。グループ毎にアニメーションの映像作品の制作することになり、週末まで毎日活動し忙しそうだった。もう3年生の先輩達が受験でいない中、動画編集まで出来る娘は他のグループからも引っ張りだこだったらしい。後で見せてもらったが、とても私には作れそうもないものだった。

早いもので来年は2年生。後輩を迎えてどんな先輩になるのだろうか。

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三浦探訪~衣笠

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最近は三浦半島に興味を持っている。海岸と山々が複雑に入り組み、鎌倉にも近いことから地政学的に重要な土地だったらしい。この半島を治めていたのが三浦一族だった。中でも三浦義明(祖父)、三浦義澄(父)、三浦義村(子)、和田義盛(従兄弟)はNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の中でも活躍していた。桓武平氏の血筋ながら代々源氏に仕え、鎌倉幕府成立に果たした一族の功績も大きい。今回はその三浦一族を訪ねて横須賀市衣笠へと行ってみた。衣笠駅を降りて商店街を歩くと、横断幕や昇り旗があちこちに掛かっていた。それにしても、なんでここは三浦市じゃないのだろう。

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駅近くの衣笠コミュニティセンターには、三浦一族の甲冑がずらりと展示されている。レプリカだが、その数は30領ほどあり圧巻。衣笠桜祭りでは、この甲冑を来て武者行列が行われるらしい。

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満昌寺は1194年に源頼朝が三浦義明の菩提を弔うために建立した。境内には頼朝が手植えたというツツジの木も茂っていた。

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満昌寺の境内の奥には三浦義明廟所がある。この日は宝物館も開館しており、国重文の三浦義明坐像も見ることが出来たが、その渋い顔付きが良かった。

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腹切松公園。衣笠城の落城後、一族を先に逃がした義明は、この松の下で割腹した言われている。享年89歳の壮絶な最期である。

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薬王寺旧跡 三浦義澄公墳墓。鎌倉殿の13人のうちの1人となった義澄だったが、彼が鎌倉幕府の要職に付けたのも義明のお陰だったと言える。

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こちらは三浦義村を祀った近殿神社。山本耕史演じる義村は非常にクセの強いキャラとなっているが、個人的には結構好きだったりする。

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急坂を登り詰めた衣笠城址の手前に立つ大善寺。奈良時代の行基による創建で、後三年の役で一族二代目の三浦為継を守ったという不動明王像が祀られている。

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三浦一族の拠点である衣笠城址。1180年に平家側にいた畠山重忠や河越重頼ら三千騎が攻め寄せたのに対して、ここで義明はわずか百騎余で迎え打った。その頼朝と一族のために老命を投げ打った覚悟が後世に語り継がれた。

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本当はこの後に衣笠山にも登るつもりだったのだが、適当に進んだ山道が全く違う方向へ向かっており、最終的には横須賀しょうぶ園に着いてしまった。ということで衣笠山はいずれ大楠山との縦走で来ることにしよう。

The Black Crowes Live Report 2022

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昨日The Black Crowesの来日公演を観に立川へ行ってきた。デビュー30周年を記念したこのツアーは2020年に発表されたが、コロナのために延期となっており、今年からようやく開始されていた。しかしまさか日本にまで来てくれるとは全く予想していなかった。彼らの来日は17年振りだが、私にとっては念願の初公演である、

そもそもバンドは兄弟の不仲により2013年から活動を停止していた。その原因はChris側がバンドメンバーに正当なギャラを払わなかったというもの。これは当時マネージャーをしていたChrisの妻が噛んでいたらしい。しかしRichの最新インタビューによると、既にChrisは離婚しており、今回の復縁はそれとも関係ないらしい。要するに時間が解決したということなのだろう。

さて気になったバンドメンバーだが、兄弟以外でかつてのメンバーはベースのSven Pipienのみであり、それ以外は友人やオーディションによるサポートという扱いのようだ。出来れば往年のメンバーで集まって欲しかったのだが、またギャラで揉めるのを避けたのかもしれない。

会場の立川ステージガーデンに入ると、3階席まであり思っていたよりも大きなハコだった。私の席は1階席の12列目の中央で、予想外に良席だった。年齢層は30〜50代といったところか。ヒッピーぽい人や女性も少なくなかった。

17:35にオープニングアクトとして日本のリフの惑星というバンドが登場した。エモっぽかったりThe Black Crowesとは少し毛色が違ったが、"Helter Skelter"をカヴァーしていたりなかなか好演だった

どんでん中に2羽のカラスのバックドロップが現れると場内に拍手が沸き撮影する人が多かった。18:30にThe Black Crowesのメンバーが右袖から登場すると、場内は大歓声にて早くもオールスタンディングとなる。そして始まったのは"Twice As Hard"。ゆったりとしたギターリフからボトムの効いたバンドサウンドが重なった後に、Chrisが高らかに歌い始めた。

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ステージの中央にボーカルChris Robinson、右手にギターRich Robinson、左手にはベースのSven Pipienともう1人のギターIsaih Mitchell。後ろには右からキーボードErik Deutsch、ドラムBrian Griffin、そしてバックコーラスの女性が2人。計8人の大所帯だ。

Chrisは青いジャケットに羽の付いた黒のシルクハットが良く似合っている。初めてその姿を拝んだが、重ねた歳が渋みを増しており、手を振り上げたり、マイクスタンドを回したり等、一挙手一投足がサマになる。観客の煽り方も非常に上手く、やはり彼のカリスマ性に納得。

Richは3年前のMagpie Saluteで見たが、さらに貫禄が出たかな。髪型もChrisと同じようで、こうして見るとやっぱり兄弟だなと感じる。SvenもMagpieで見たが、この人は以前から老け顔だったせいか一番変わってない。終始にこやかで楽しそうにベースを弾いていた。

「ありがとうトーキョー。The Black Crowesショーへようこそ」とChrisのMC。そして2曲目はピアノがご機嫌なR&Rナンバー"Jealous Again"に、思わず身体が揺れ動く。一度だけ中央のマイクでChrisとRichが顔を近づけて歌う場面を見て、あぁ今The Black Crowesを観ているのだと実感した。3曲目のスローナンバー"Sister Luck"ではChrisの伸びやかな歌い上げを堪能した。

今回は1stアルバム「Shake Your Money Maker」全曲演奏ということなのだか、正直私の中ではこのアルバムにはそれほど強い思い入れがなかった。他のアルバムから先に聴いていたので、後追いになってしまったからだ。しかしこうして聴いていると、やはり素晴らしい曲ばかりの名盤だと痛感させられた。

他のメンバーは名前も分からなかったが、一番強く印象に残ったのが、もう1人のギターIsiah。オールマンのような渋い風貌をしていたが、リードギター担当ということもあり、鋭いギターソロやスライドなどのプレイには何度も目を奪われた。

「次はゴスペル曲を演ろうか」と言って始まった"Seeing Things"では特に女性コーラスが良かった。2人とも若くてセクシーな美女揃いで、曲に合わせて踊りながら綺麗な歌声を重ねていた。また「ジョージアはOtis Reddingが作ったんだ」と言って演奏したのが"Hard To Handle"。アメリカ南部を強く感じさせるステージだ。

Richはテレキャスターやファルコンなど曲が変わる度に毎回ギターを変えていたが、一度だけアコギを持って弾き始めたのが"She Talks To Angel"。Chrisの歌声との重なりが綺麗だった。

私がこの日驚いたのは、ステージ上もさることながら、観客のノリの良さだ。冒頭から曲に合わせて全員が思い思いに踊っていて、あまり日本では見られない光景に、思わずここはアメリカかと思ってしまった。またここ最近のコロナ禍のライブでは、観客は声を出すことが禁止されていたが、この日は皆歌ったり歓声を上げていた。さらに撮影もOKらしい。私も終始歌い踊り撮影し、これ以上ない居心地の良さを感じていた。

"Struttin' Blues", "Stare It Cold"と立て続けにノリの良いR&Rで盛り上がり「Money Maker」アルバムは終了した。ここからは何を演るかは分からない。始まったのは"Sometimes Salvation"。沈み込むようなリフが腹に響く。

軽快な"Soul Singing"の後は"Wiser Time" 。最も聴きたかった内の1曲だ。静かに始まり徐々に盛り上がっていき、終盤ではIsiahがソロを弾いた後に今度はRichもソロを弾き、最後は2人でツインリードを聴かせてくれて酔いしれた。

"Thorn In My Pride"ではChrisがハーモニカを吹き出し、Richのギターとの掛け合いで楽しませてくれた。最後はぶっといグルーヴの"Remedy"で首を痛くした。

本編終了しメンバーは一度退場するも、止まぬ拍手に再登場してくれた。「最後にR&R曲を1曲演ろう」と言って始まったのはRolling Stonesの"Rocks Off"。先日リリースしたカヴァーEPの冒頭曲である。そして20時過ぎに大歓声の中で全公演が終了した。

今思えば少し短かったかなとか、あんな曲も聴きたかったなどないこともないが、とにかく楽しく大満足なR&Rライブだった。もう思い残すことはない。

01 Twice As Hard
02 Jealous Again
03 Sister Luck
04 Could I've Been So Blind
05 Seeing Things
06 Hard To Handle
07 Thick N' Thin
08 She Talks To Angels
09 Struttin' Blues
10 Stare It Cold
11 Sometimes Salvation
12 Soul Singing
13 Wiser Time
14 Thorn In My Pride
15 Remedy
<encore>
16 Rocks Off

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「西行」 白洲正子

西行

私は旅が好きだ。そして旅人が残した作品が好きだ。それを読んだり鑑賞することで自分も旅への想いを馳せることが好きだ。

私の好きな旅人の1人である松尾芭蕉について以前に書いたことがある。あの時は奥の細道330年ということで、企画展なども催されていた。奥の細道は松尾芭蕉が敬愛する西行の500回忌に合わせて、西行の足跡を辿る旅であった。今回はこの西行について書いてみたい。

西行(1118-1190)は平安末期から鎌倉初期まで活躍した歌人である。彼は元々は京都の武士だったが、若いうちに出家してからは和歌を詠みながら日本全国を旅して巡った。私が知っていたのはこの程度だったが、今回この白州正子の本書を読み、より深く理解することが出来た。

西行の元々の名は佐藤兵衛尉義清といい、鳥羽院の警固武士であった。皇族や平家とも深いつながりを持っていたが、恋い焦がれた待賢門院璋子への想いを絶つため出家したという。白州正子が女性らしい感性で、その後の西行の歌の数々から彼の想いを読み取っている。

出家後は桜の吉野に始まり、熊野、鴫立沢(湘南)、高野山、讃岐、二見浦など各地を転々としている。あちこちで庵室を建て数年間ずつ暮らしていたらしいが、神奈川にも住んでいたとは知らなかった。白州正子がそれぞれの草庵跡や歌を詠んだ場所を探しに各地の山を果敢に分け入る紀行文も面白い。

西行は東日本へ若い頃と晩年と2回来ている。1回目は歌枕を情緒豊かに詠んでいるが、2回目は奥州の藤原秀衡に東大寺再建への寄付を依頼するためだった。その道中の鎌倉で源頼朝にも会っている。武道について問う頼朝に対し、西行は昔のことは忘れたと断り、貰った手土産も門外の子供に与えてしまったらしい。藤原の血筋であり西国の彼にとっては、東国の将軍は好ましい相手ではなかったのだろう。

以下はこの時の旅で詠んだ一首である。
風になびく富士の煙の空に消えて
ゆくへも知らぬわが思ひかな

この頃の富士山はまだ噴煙を上げていた。その煙に、晩年になってもなお行方知らぬ彼の心を重ね合わせている。私が最も好きな彼の一首である。芭蕉の頃は五七五の俳諧が流行っていたが、西行の頃は五七五七七の和歌の時代だった。和歌の方が情報量が多い分、そこに詠まれる情景や叙情が豊かだと思う。

ちなみに今ちょうど五島美術館で「西行〜語り継がれる漂白の歌詠み」も開催されている。西行自筆の手紙を始め、和歌集や西行物語絵馬など名品が一堂に展観されており、見応えがあった。漂白の歌人が詠んだ光景に思いを馳せた。

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「鎌倉殿の平山季重」

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NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には、鎌倉殿に仕えた数多くの御家人が登場していたが、そこで描かれていた以外にも多くの御家人がいた。私の郷土である日野市平山のヒーロー平山季重もそのうちの1人である。

そんな季重に関する資料を展示する「鎌倉殿の平山季重 〜中世日野の武士の様相〜」が日野市郷土資料館にて開催されていた。そこで実家に帰ったついでに、娘と母親を連れて行ってきた。ここは廃校になった小学校の一角を利用した資料館で、一つの教室に平山季重の資料が展示されていた。それらを一通り見て季重について理解を深めることが出来た。

まずこの地域では古代より太陽祭祀を任務としていた日奉氏が勢力を持っていた。そこへ京都の藤原道頼の子・宗頼が加わり、武蔵七党の1つ「西党」となった。宗頼の7代目にあたる季重の父・季綱が平山の地に移り、氏を名乗ることになる。

当時八王子から日野には京都の藤原氏の荘園「船木田荘」が広がっており、平山もこれに属していた。その繋がりから季重は若い頃には京都で御所の警備にあたり「武者所」と名乗ることを認められていたらしい。

やがて京都では政局争いが活発化していく。季重は1156年の保元の乱では源義朝の軍勢に、1159年の平治の乱では源義平の軍勢に加わり戦っていたということが「保元物語」「平治物語」に記されている。しかし源氏方が敗れたことで、季重は武蔵国平山へ戻ったようだ。

その後、源頼朝が旗揚げすると季重はこれに加わった。「吾妻鏡」には季重の金砂城の戦いや宇治川の戦いでの活躍が描かれている。さらに平氏討伐のため自身の一団ともに西国へと向かい、源義経とともに一ノ谷でも戦い功名を挙げたらしい。

この武勲に対して朝廷から義経らとともに任官されている。義経はこのことから頼朝の怒りを買ったわけだが、一方の季重は頼朝の許しを得たようだ。なぜなら頼朝の子・実朝が誕生した時には、鳴弦の役まで務めているからだ。そして実朝と同じく1219年に生涯を閉じた。

ちなみに娘が興味を持ったのは、展示よりも廃校になった小学校の方だった。仕方なく今度は私も娘と一緒に校内外の探検に付き合うのだった。

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「25時、ナイトコードで」

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1.自傷無色
2.シャルル
3.ハロ/ハワユ
4.命に嫌われている
5.乙女解剖
6.独りんぼエンヴィー
7.とても痛い痛がりたい
8.ボッカデラベリタ
9.夜に駆ける
10.ビターチョコデコレーション
11.カトラリー
12.ベノム

最近うちの娘がハマっているのは「プロジェクトセカイ(通称プロセカ)」である。これはボカロ曲に合わせてリズムを刻む音楽ゲーム(通称音ゲー)である。友達が皆やっていてもうちはこれまで認めていなかったのだが、許可した夏以降はずっとこればかりやっている。

沢山の曲に合わせて様々なレベルや譜面があるようだ。高レベルの早いテンポをクリアできるようになりドヤ顔してくるが、親としてはどうにも素直に褒め辛いものがある。

人気の高いボカロ曲が次々と追加されているようで、娘も自分の好きな曲が入ると喜んでいる。ボカロ作曲家にとってもこのゲームに曲が採用されることは1つのステータスになっているらしい。

またこのゲームが人気なのは単なる音ゲーではなく、初音ミクを始めとする大勢のキャラクター達が、アイドルグループやロックバンドなどユニットを組み、それぞれのストーリーが展開していくのも理由だ。ストーリーのアニメーションが挿入されていたり、ミュージックビデオで歌うキャラクターの衣装を集めるために点数を稼ぐなど、色々な工夫がなされているようだ。

その中で娘が好きなのが、この「25時、ナイトコードで。」(通称ニーゴ)というユニットである。これは歌や作曲、イラストや動画制作など、それぞれの分野を得意とする少女達が深夜にオンラインで集まり創作活動を行うサークルらしい。

今娘は同じ学校のクラスで仲の良い友達が2人いるのだが、偶然にも1人は歌、もう1人は作曲と動画制作を得意としている。イラストの得意な娘にとっては、このユニットは正に自分達の投影なのだろう。

そんな娘が先月の誕生日に所望したのがこのCDだった。ニーゴのメンバーを演じている声優達が歌う楽曲を集めたアルバムで、人気の高いボカロ曲ばかり並んでいる。

特に有名なのはYOASOBIの"夜に駆ける"だろう。小説を元に制作された楽曲が注目を集め、ネットから紅白にまで出演し全国区となった。またカンザキイオリの"命に嫌われている"も有名で、昨年末の紅白でネットで絶大な人気を誇るまふまふが歌い話題になっていた。

他にも娘から教えられていたので知っていた曲が多かったが、やはりボーカロイドではなく人間が歌うことで、また違った印象を与えている。最近の声優は演技だけでなく、歌唱も上手いのが定石のようだ。

気になったがこれらの楽曲の歌詞だ。前向きな他のユニットと違い、このユニットはかなり暗く内省的な内容の歌詞の楽曲が多い。しかし単に暗いだけでなく、どこかに救いもある。こうした歌詞が今の思春期の娘達には響くのだろう。


「心に映る山」

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初めて山岳画に興味を持ったのは今から5年前になる。横浜美術館で大下藤次郎の水彩画を見た時だ。あれ以来、古今東西の様々な素晴らしい山岳画に出会ってきた。

中村好至惠さんの絵に出会ったのも最初の頃だった。ネットで「山の絵」というホームページを見つけ、その見事な水彩画に惚れ込み急いでブックマークした。さらっと描いているようで、それぞれの山の持つ空気感を閉じ込めた作風に感銘を受けた。

昨秋は実際に絵を目にする機会に恵まれた。山梨の日野春アルプ美術館で中村さんの個展が開催されたのだ。私は知らなかったが、アルプ美術館では中村さんの個展がこれまで何度も開催されており、閉館に伴いここではこれが最後になるということだった。全国各地の名山を描いた沢山の作品が館内にずらりと展示されているのは圧巻で、何時間見ていても見飽きることがなかった。

この時、館長さんから横浜にも中村さんの絵を見られる場所があることを伺った。何でもこちらのカフェで定期的に個展を開いておられるのだという。そこで早速行ってみることにした。

相鉄線希望ヶ丘駅から徒歩4分のカフェ・ピッコロ。お洒落なお店の2階の壁中に絵が展示されていた。美味しいお食事を頂きながら絵を眺める。至福の時。

するとその時、1人の女性が2階に上がって来られた。何と中村さんご本人がそこにいらっしゃった。予想もしなかった展開に驚いたが、こんな機会はまたとない。色々とお話を伺った。

中村さんは完全現場主義だった。絵の具を持って山へ登り、ポイントを決めると30分で描き上げるのだという。厳冬期には絵の具が凍ってしまうこともあるらしい。しかし写真を撮って終わるのとは違う、その山と向き合う30分なのだ。伺っていて自分も山で絵を描きたくなってきた。

今ここに1冊のサイン入りの画文集がある。中村さんが2014年に白山書房より出版された「心に映る山」だ。丹沢、八ヶ岳、南アルプス、北アルプス、八ヶ岳をはじめ、各地の名山が情景豊かに描かれている。水彩画の淡い色合いが、にじみ、混ざり合う。それぞれの山々にある匂いや湿気などの空気感が中村さんの絵からは漂ってくるのだ。そしてそれぞれの絵に添えられた文章がまた味わい深い。

5年前に1枚の山の絵に出会ってから私の人生は変わった気がする。この間に色々な苦難があったが、山と絵を心の拠り所にしてどうにかやって来れたと言える。出会いに感謝。

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「ミーティング・ザ・ビートルズ・イン・インド」

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インドは不思議な国だ。ヒンズー教だけでなく仏教の発祥の地であり、哲学から社会制度・食文化に至るまで独特な文明を持っている。最近は私も仕事でインド人と付き合うことが増えてきたが、潤沢な資金力と押しの強さにはいつも圧倒される。

私がインドについて最も関心があるのは、彼らの音楽である。シタールは日本の琴やアメリカのスティールギターに並ぶ三大弦楽器だと思っているが、あの独特の鳴りと音色はある種のトリップ感覚を与えてくれる。そんなインド音楽を世界に広めたのが、ビートルズであり、ジョージ・ハリソンだった。

この映画はそのビートルズが1968年にインドに滞在していた時の様子に焦点を当てたものである。当時インドでビートルズと同じ時を過ごしたポール・サルツマンといカナダ人の目を通して描かれており、彼が脚本・監督を務めている。

サルツマンは失恋を癒すために、超越瞑想を教えていたマハリシ・ヨーギーのいる北インドのリシケシュを訪れた。そこに偶然滞在していたのがビートルズの面々だった。共に瞑想を学ぶうちに打ち解け、リラックスした彼らの様子を撮影したり、楽曲制作を目の当たりにする。見ているこちらも彼らを身近に感じられる。

それまでのビートルズは世界的な熱狂の渦中にいた。常に注目とドラッグを浴び続け、そのまま行けばジミヘンやジャニスのように死に至るか、ブライアン・ウィルソンやクラプトンのように廃人になっていてもおかしくなかった。そんな彼らをインドに連れて行ったのがジョージだったわけだ。

私は瞑想をしたことはないが、きっと宗教と同様に必要とする人には効果があるのだろう。そのお陰で彼らはクリーンになりクリエイティヴに立ち戻ることが出来たのだから。そして瞑想とインド音楽はセットで世界に広まっていき、平和を希求するヒッピー文化に影響を与えるのだった。そう考えると、ジョージの存在というのは非常に大きかったのだと言える。

畠山重忠を訪ねて〜神奈川編

先週の「鎌倉殿の13人」では、畠山重忠が遂に北条時政の謀略により殺されてしまった。
自身が潔白であることを示すために、3万の北条勢に対してわずか134騎で立ち向かったという史実は、彼が坂東武者の鑑として永年人気の高い理由の1つである。ドラマでも思っていたよりも重忠の最期ががっつりと描かれていて満足だった。
前回は彼の地元の埼玉を訪ねたが、今回は終焉の地を含め、神奈川県内のゆかりの地を訪ねてみた。

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<鎌倉歴史文化交流館>
まずは鎌倉から。畠山重忠は生前に武蔵御嶽神社に赤鎧を奉納しており、神社の宝物館に収蔵されているが、そのレプリカが鎌倉歴史文化交流館に展示されている。

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<畠山>
葉山町にある205mの低山。1180年まだ平家方だった重忠が三浦氏の衣笠城を攻める際にこの山頂に本陣を張ったことから、姓が山名に残っている。今は眺望はほとんどない。

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<畠山重忠邸跡>
その後に鎌倉御家人となった重忠は、源頼朝の大きな信頼を得る。重忠も公務のために幕府のすぐ側に邸宅を構えた。鶴岡八幡宮の東側に石碑のみ残る。

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<東光禅寺>
横浜市金沢区にある東光禅寺は重忠の開山。ここに重忠の念持仏・位牌・馬具・供養塔がある。御住職のご好意により御本尊にてお参りさせて頂くことができ、念持仏の薬師如来像と位牌を拝見することができた。

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<畠山重保公廟所>
東光禅寺の近くの六郎谷に重忠の子 重保の墓がある。重保は重忠に先立って鎌倉由比ヶ浜で三浦義村に殺されている。

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<畠山重忠公碑>
畠山重忠は1205年6月22日に現在の横浜市二俣川で北条義時軍と戦い最期を遂げた。古戦場跡には畠山重忠終焉の地碑が立っている。

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<首洗い井戸の跡>
少数ながら4時間にも及ぶ激闘の末、最期は愛甲末隆の矢に当たり討死した。切られた重忠の首はかつてここに水が湧き出ていた井戸で洗い清められたとされる。

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<畠山重忠首塚>
重忠の首が祀られた場所、あるいは兜を埋めた場所といわれる。小さな地蔵堂の石造七重塔が立っていた。

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<薬王院・六塚>
3万の北条義時軍と戦って全滅した重忠の一族郎党134騎は、ここにある6つの塚に葬られた。

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<駕籠塚>
重忠の妻「菊の前」は、合戦の知らせを受け駆けつけたが、重忠の戦死を聞き自害した。ここに籠のまま埋葬されたと伝わる。

10月には横浜市立博物館で重忠に関する展示も予定されているらしいので、楽しみにしている。
いつか畠山重忠を主人公にした大河ドラマも制作されないものだろうか。

畠山重忠を訪ねて〜埼玉編

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の登場人物の中で、私が源氏以外で最も好きなのは畠山重忠である。多くの癖の強い登場人物がいるドラマの中では単なる好青年的な描かれ方なのだが、実はこの人物は坂東武者の鑑として多くの伝説を持つ武将である。

私が彼のことを初めて知ったのは、2年半前に奥多摩の武蔵御嶽神社で銅像を見た時だった。聞いたことのない名前だと思ったが、その後関東各地に彼の史跡があることを知るにつれ、永年人気の高い武将であることを知った。

畠山重忠は1164年に今の埼玉県深谷市畠山で生まれた。その後は同じ埼玉県の嵐山町に館を構え、若くして武蔵中に名を知られる武将となった。今春に埼玉にある彼のゆかりの地を訪ねてみた。

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<井椋神社>
まずは深谷市畠山に向かう。重忠の家系は代々秩父の地を治めていたが、父重能の代にこの畠山の地に移ってきた。ここはその際に秩父から勧請された神社。

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<畠山重忠公産湯ノ井戸>
1164年に重忠はこの地で産まれた。生家跡の畠山重忠公史跡公園内には、重忠が産まれた際に用いられた産湯の井戸が残っている。

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<鶯の瀬>
近くを流れる荒川の河岸に立つ碑。豪雨時に徒渉しようとした重忠に、一羽のウグイスが浅瀬を教えたという伝承に由来する。

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<満福寺>
重忠が再興した畠山の菩提寺。境内には立派な畠山重忠公菩提所が立っており、重忠の位牌などを安置している。

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<畠山重忠公の像>
史跡公園内にある重忠像。1184年の源平合戦の鵯越で馬を担いで崖を下ったという伝承に基づいている。この地域の小学校では運動会で馬を背負って競争するらしい。

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<畠山重忠公墓>
史跡公園内にある重忠の墓。建物内には6本の大きな五輪塔が並んでいた。周囲には父重能墓や重忠没後百年記念碑などもあった。

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<菅谷神社>
重忠は1187年までに畠山から今の嵐山町に移り住んだ。菅谷神社は重忠が近江からこの嵐山に勧請した建てた神社。

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<菅谷館跡>
重忠が嵐山町に建てた館の跡地。本廓・二ノ廓・三ノ廓まである広い城郭だが、戦国時代に拡張されているらしい。

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<埼玉県立嵐山史跡の博物館>
館跡地内にある博物館。重忠に関する資料が豊富で、1205年に重忠が最期に菅谷館から鎌倉へ向かったことを記載した吾妻鏡も展示されていた。

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<畠山重忠像>
館跡地内に立っている重忠像。謀叛の意がないことを示すため、平服を着て鎌倉方面を向いて立っていた。
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